2013年10月27日日曜日

とある一位の精神疾患 2

475VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(東京都)[saga]:2011/06/09(木) 23:36:21.56 ID:ud7oDU7Co

ばちっ、と。                                      バチッ、と。
おおきなおとがした。                    いつも通り大きな音が聞こえた。

でんきのスイッチをきったときの。         俺のスイッチが入る、入れ換わる時の。
そンなような、おとだった。                      そンなような、音だった。

めをあける。                                     目を開ける。

ぼンやり、くもっている。                        ぼンやりと曇っている。

また、いたい。                                いつも通り、痛い。

そう、おきた。                               ゆっくり体を起こした。
めがさめた。ここは。                       自分はどこにいるンだろう?

ここは、うすぐらい。そとだ。                     薄暗い。夕方? 外だ。

こうえン、のような。                               公園だろうか。


                        「?」


あくせられいた。                                    百合子?

おかしいな。                                     おかしいな。


                     「どこにいるの?」


こわい。                            大切なものを失くした気がする。

いたい。                             体中が今までにない程痛い。

なにか、よくない、そんなきがする。         何か嫌な感覚が纏わりついている。


                        「ァ、」


だれか。                                           誰か。

あくせられいた。                                     百合子。


                    ひどく、こころぼそい。

              それなのに、こンなところに、たったひとりだ。

                    なンとかしなくては。

                   このひとが、しンでしまう。
476 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(東京都)[saga]:2011/06/09(木) 23:36:59.19 ID:ud7oDU7Co





                 -7 もンだいない




477 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(東京都)[saga]:2011/06/09(木) 23:37:42.91 ID:ud7oDU7Co

段々に意識が鮮明になってくる。

ここは? 公園だ。いつもの児童公園の遊具の中。
入り込めるのは装飾じみた小さな穴だけで、大人は絶対に入って来れないだろう場所。

隠れる時はいつだってここに来た。
だが、これほど広く、冷たく感じたのは初めてだ。

意識がはっきりしてくると共に、痛みが体を覆い始める。

痛い。痛い、痛い。
何だ、これは。

今までに味わったことのない程の痛み。

何があったんだ。
さっき交代した時はまだ……

脳裏に蒸気を上げるアイロンがちらりとかすめる。

……何故交代したんだろうか。

我慢ができなくなったから、俺が出ていったのに。
いつのまに交代したんだろう。何故、交代したのに傷が増えているんだろう。

ゆっくりと体を起こす。
随分長い間こうしていたらしい。
体の下になっていた部分が鈍く痺れた。

痛い。

そっと掌を地面につく。
泥がぬるりと滑った。
雨は降っていない。

泥?

片足が薄闇に浮かびあがる。

奇妙な方向にねじれ、太股から黒い水たまりがじわじわ、じわじわ、じわじわと。

「う、ァ゛――、ァ、あああああああああァあッ!?」

ズグン、と。

意識した瞬間、体中のありとあらゆるところが脈動した。

脚の血管の中を巨大な蟲が鍵針だらけの脚で這いまわっているような。
なんだろうか、胸が痛い。脇腹が。何か飛び出して来そうに。焼ける。中から。
目はちゃんと付いているか? 左。そう、左の目だ。なんだ、これは。酷く熱い。
478 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(東京都)[saga]:2011/06/09(木) 23:38:20.51 ID:ud7oDU7Co

「ア、っぐ、フ……う、うェ゛、」

突きあげる吐き気に任せて、胃液を吐き出す。
しばらく食べていないから色のついていない酸だけが……

どす黒い内容物が唇からぼたりと滴った。
鉄錆と強い酸の、酷い悪臭。

「あ、あ?」

すぐに次の液塊が食道を駆けあがってくる。

「げ、っゥ……え゛! え、けゥ……ッ!」

壊れた水道管から汚い水が逆流するような音。

醜い。
そう思った。

泥まみれで地面に転がり、顔の脇に血液と胃液の混じった吐瀉物を散らす。
全身を震わせて、のたうつ。蟲だ。

ただの、寄生虫だ。

は、は、は、と呼吸が早くなっていた。
生理的に浮き上がった涙を追い出す。

寄生虫は、宿主の生き物ができるだけ長生きするように努めなければならない。

何故だろうか?
それは、食物を得るためだ。心地よい住処を。

宿主を早々食いつぶすのは、成長の早い毒蟲のすることだ。
ゆっくりと時間をかけて育つのならば、宿主の体をより良い状態に保つ必要がある。

だから、自分もそうしなければならない。

起き上がろうと力を込めていた腕を元に戻す。

地面に胎児のように丸まり、目を閉じた。
気休めにすぎなくても、そう思い込むしかない。

傷が治る。
血が止まる。
痛くなくなる。

歩けるようになる。
ここから逃げる。
もう、誰にも傷つけられないように、なる。

そう、強く、強く思いこむ。
それが本当になるように。
479 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(東京都)[saga]:2011/06/09(木) 23:38:47.58 ID:ud7oDU7Co

痛みがなくなる。
きっと治る。
もう一本の傷も付かないように、なるのだ。
全部、「跳ね返して」しまうように、なったのだ。

痛くない。
痛くない、痛くない、痛くない痛くない痛くない痛くない痛くない痛くない。

ざら、と、何かが溶けていくような音が聞こえる。
何だろう? まあ何でも構わない。

大丈夫。絶対に、大丈夫。死なない。これは治る怪我だ。
痛くない。大丈夫、大丈夫。

何十分言い聞かせ続けただろう。
気がつけば、痛みがほんの少し、和らいだような気がした。

これなら、大丈夫だ。

脚をちらりと見る。
未だに奇妙な方向を向いてはいるが、血は止まっていた。

よし、大丈夫。
もう痛くない。

また痛みが引いた気がした。

心臓がどくどくと鼓動した。
何だかよくわからない。
けれど、何か不思議な力が体を突き動かしていた。

ゆっくりと、深呼吸をする。

ちくりと胸が痛んだ。
大丈夫、痛くない。
痛みがゆるゆる溶ける。

良い。
これなら、いける。生きていけそうだ。

あとは怪我を治して……

ぱたりと思考が停止した。

怪我を治す?
ここで?
480 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(東京都)[saga]:2011/06/09(木) 23:39:36.85 ID:ud7oDU7Co

どれだけ自分が物知らずでも、それくらいは判断できた。

無理だ。

血が流れ過ぎている。
それに、今はましになったとしても先ほどの痛み方は尋常じゃなかった。

これは憶測だが、先ほど自分が目覚める前は気を失っていたのだ。そう思う。
治す方法は一つしかない。

あの男の所へ行くこと。

そしてあの怖気で死んでしまいたくなるような時間を過ごすこと。
それくらいしか、馬鹿で弱弱しい自分には思いつかなかった。

力が欲しかった。
こんな自分ではなく、もっと攻撃的な人物でありたかった。

こんなものになりたくなかった。
自分を生み出したこの体のあるじが、酷く憎かった。
その優しさが疎ましかった。

守らせてほしかった。
頼ってほしかった。
守らないでほしかった。

だから。

この体は俺が守ろう。
そう決めるのだ。

寄生虫は、宿主の体を守るものだ。
だから、彼が帰ってくるまで体を保たなくてはならない。

今一瞬体を二つに裂くような出来事が起ころうとも。
命を守れるならそれでいい。

口の中に溜まった血液と胃液を、唾液で洗い流した。
ベッと唾を吐き捨てる。黒い。
まるで自分の心のように。

あそこへ行くのにどれくらいの時間がかかるか考える。
歩きで行ったことはない。

だが方角は分かる。
距離も大体計算できた。
何故そんなことができるかは知らなかった。

どうでも良かった。
できないことより、ずっと嬉しかった。
481 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(東京都)[saga]:2011/06/09(木) 23:40:51.22 ID:ud7oDU7Co

自分の脚では1晩よりもっと長い時間かかる。
ましてこの怪我した脚では。

いや、だめだ。

2時間だ。
それ以上は持たない。
大人に見つかってもだめだ。

走ろう。

どうなってもいいから、走っていこう。
そうすればきっと、間に合う。きっと。きっと。

どれだけ痛くても構わない。
どれだけ酷くなっても構わない。

到着したなら、どんな扱いを受けても良い。
この体が治るなら。

大体そこに行けば自分がどんなに扱われるかは分かっている。
それでもあの女の所に戻るより万倍ましだろう。
たとえ慰み物になってもだ。

自分が痛みを受けよう。

自分が裂かれよう。

ただ、ただ彼のために。

もう、誰か助けてなんて願わない。
幸運が起きろなんて願わない。

誰かなんていないから、自分が誰かになる。
幸運なんて起きないから、それは自分で起こす。

この期に及んで、もう存在しない救いなんて、求めない。

次にそれをする時は、きっと自分が要らなくなる時だ。

だから、その時までは。

自分が全部、引き受けよう。
482 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(東京都)[saga]:2011/06/09(木) 23:42:00.90 ID:ud7oDU7Co





だから、

その日、俺は犯されることを知っていながら、先生と呼ばれる男の家を目指していた。




483 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(東京都)[saga]:2011/06/09(木) 23:42:33.54 ID:ud7oDU7Co

雷鳴の音が鈴科百合子の病室にまで聞こえた。

ベッドの上で、シーツを掛けた薄い肉体がビクンと撥ねる。

「。」

インデックスは居なかった。
出ていったことに気付かないほどに眠っていたのだろうか。

そして気付いた。
出ていったから、夢を見たのだ。

夢の中の、


誰だ。

もやもやと何かが渦巻いている。

違う、忘れてなんかいない。
思い出したくないだけで。

シーツを握り締める。
駄目だ。耐えろ。
耐えなければいけないのだ。

自分が耐えなければ、あの子が、

あの、

ざ、ざ、と思考にノイズが混じる。
何かの音が聞こえる。

水溜まりを踏む。雨音? 外からだろうか。

安っぽい鉄製の階段を上る音。

電車。踏切。

鍵。ドアが軋みながら開く。閉まる。

痛い。

痛い。

酷く、頭が痛い。
484 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(東京都)[saga]:2011/06/09(木) 23:42:58.20 ID:ud7oDU7Co

重くなった頭を、枕の上にばさりと乗せる。
白い髪が散った。
モノクロの陰影。

ぶるぶると震える指で、彼はベッドマットの下を探った。
程なくして、何かをそっと摘まみ出す。

そんなところに隠しているせいで、少しだけ皺のよってしまった、封筒だ。

くるりと返す。

雨の晩に窓から射すごくごく弱い光。

文字が奇妙に浮かび上がって見える。
きっと自分が何度も何度も見つめ直してきたからだ。

綺麗な、神経質なまでに整った字。

『すずしな ゆりこ さま へ』

漢字は読めなかった。

その上に丁寧に振られたふりがな。
それだけが、その封筒を自分宛てのものだと明らかにしている。

ゆりこ、の文字が読めなければ、この手紙を見つけられなかっただろう。
2週間前の自分がそれを読めたことに、鈴科百合子は感謝した。

未だに堅く閉じられた封は開けられていない。

だが、もしこのまま夢を見続ければ、おそらく、きっと。
鈴科百合子はもうすぐこれを読まないではいられなくなるだろう。

ここに居る人は、誰ひとり自分のことを知らなかった。

それなのに、ここに自分を知っている人が居る。

この部屋に手紙を置いて行ってくれたのは誰だろうか。

「すずしな、ゆりこ、さま、へ。」

小さく読み上げた宛て名書きは、酷く優しかった。

ゆっくりとその差出人の名前をなぞる。

「あくせられいた、より。」

何故だろう。

ずっとこの人に、逢いたかった。そんな気がした。


514 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(東京都)[saga]:2011/06/15(水) 16:08:28.84 ID:YZioYUbTo

数日が経った。

鈴科百合子はあれきり、外に出ようとはしなかった。
ただ、以前のように食事を拒否し、シーツの上に丸くなってドロドロ眠り続けていた。

大雨の降った翌日から晴れ間が続いている。
雲が切れ切れに浮く、蒸し暑いような天気だ。

19090号はすっかり意気消沈していた。

悲しかった。
何故か、百合子が唐突に自分から遠い存在になったような気がした。

どれだけ話しかけても、上の空で、遠くを見つめるような目をしている。
あれだけ眠っているというのに、両目の下にうっすらと影が出来ていた。

「百合子……」

「ン、。」

「本、借りてきました、と、ミサカ19090号は、両手一杯の本を見せます」

「、、、ありがと。」

ため息が零れた。

一昨日同じように持ってきた本は、置いた形そのままにデスクの上に積んであった。
ワークノートの上に置いてある鉛筆も、数日前から全く移動していない。

「百合子?」

「うン。」

「ご飯、一緒に食べませんか?」

「やだ。」

「百合子……」

今日何も食べなかったら、また点滴で栄養を流し込むことになるだろう。

水分だけは取っているようだった。
ミネラルウォーターのボトルの中身は様子を見に行く度にちびちび減っていた。

「林檎、剥いてあげましょうか?
 練習したんですよ。と、ミサカは成果を報告しようと意気込みます……」

「いい。」

「……そうですか! 残念です!
 次に食べたくなったら、このミサカが剥いてあげますからね、とミサカは断言しました!」

無理に声を張ってみたものの、帰ってきたのはいつも通りの気の無い返事だった。
515 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(東京都)[saga]:2011/06/15(水) 16:08:57.25 ID:YZioYUbTo

「、、、あのね。」

小さな声に、19090号はぱっと顔を上げた。

百合子が自分から何か言おうとしている。
やけに久しぶりな気がした。

「はい! はい! 何でしょうか!」

「、。な、」

「?」

「ン、でも、ない。ごめンなさい。」

「……そう、ですか。と、ミサカは……」

ああ。自分は何の役にも立てないのだ。

19090号は下唇を強く噛んだ。

おざなりな言葉をかけて、廊下に出た。扉を背にしてずるずる座りこむ。
奇しくも、あの日の御坂美琴と同じように。

このままはだめだ。そんなこと分かっている。

しばしばと記憶の中の言葉が瞬いた。

「こうなってしまっては、鈴科百合子は学園都市のイレギュラーだ。
 いつ無かったことにされるかも知れたことではないんだよ?」

あの日、冥土帰しが懸念したことが本当になってしまうかもしれない。
鈴科百合子をこのまま放っておいてはいけないのだ。

制服のポケットから、小さく小さく折りたたまれた紙を取り出す。
パソコンからプリンターで出力したコピー用紙。明朝体でプリントされたその一番上。

『第一位 一方通行 改め 鈴科百合子 処分案件草稿』

ごっそりと感情を持っていかれたような気分になった。

背後でぱたぱた響くスリッパ音に気付き、慌てて紙をくしゃりと丸める。
同時に背後のスライドドアが開いた。

「、、ど、うした、の。」

ビクンと心臓が跳ねる。
516 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(東京都)[saga]:2011/06/15(水) 16:11:20.58 ID:YZioYUbTo

「あ、ッ百……! 何でもありません!」

座りこんだ19090号の上を虚ろな緋色の視線が通り過ぎた。

危ない。
こんな所で広げていい用紙じゃなかった。
なんて迂闊なんだろう。

こっくりと首を傾けて、百合子はぽそぽそ声を出す。

「あの、やっぱり、おねがい、いい。」

はにかんだ笑みを見るのが久しぶりな気がして、19090号は幾分元気を取り戻した。

「い、いいです! 何が何でもいいです! とミサカは立ち上がります!」

「あの、ありが、と。それで、ね。」

それに気押されながらも、百合子は今度こそ最後まで言ってしまおうと口を開く。

片手では支えきれず、両手で杖を支えながら立っているのが辛そうだ。
19090号がその手を取って、廊下のベンチに座らせた。

「あの、あのね」

「はい!」

何だろうか。

何か欲しいのだろうか。
出かけたいのだろうか。

19090号は言葉を待つ。

その言葉が少しでも我儘で、手間のかかることであるのを祈る。
そして、それについて鈴科百合子と会話が出来ることを。

中音の答えは、申し訳ないような、寂しいような、少し、嬉しいような声色だった。

「はさみ。」

「え? 何ですか? と、ミサカ19090号は訊き返します」

「はさみ。もってない、かな。」

言い切れたことにほっとしたのか、少し柔らかくなった表情で。
鈴科百合子は人差し指と中指を立てて見せた。
517 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(東京都)[saga]:2011/06/15(水) 16:11:50.81 ID:YZioYUbTo





              8 被虐待児症候群 前編




518 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(東京都)[saga]:2011/06/15(水) 16:12:21.82 ID:YZioYUbTo

芳川桔梗はため息をついた。

手元にある膨大なデータは被検体がもはや完全に健康体であることを示している。
もはや必要のなくなった測定器を止める。

ベッドの上の被検体が引きちぎるように体についた電極をむしりとった。

「ちょっと、それ精密機械なのよ? もう少し丁寧に扱ってもらえないかしら」

努めて冷静な声を出す。
この動揺を気取られたくなかった。

「あー、悪かったな。つい」

ラップトップのディスプレイから目を話すこともせずに被検体が答える。
パチパチ、と軽いタイピング音。

「また彼女とお喋り?」

「彼女じゃねえよ。うるせえな!」

殆ど真っ暗に近い室内で、ディスプレイの光に照らされた被検体の頬に薄く朱が差した。
ブツブツいいながらも指を動かし続けるところからして、図星なのだろう。

また一つため息が零れた。

ここでこんなことをしている自分を、同居人たちにはあまり知られたくなかった。

「ねぇ、貴方、本当にやるつもりなの?」

「ああ」

短い答え。迷いがない。

「俺はその為にこうやって生き延びたんだしな。
 元に戻してもらった手前、協力くらいはしてやらねえと」

予想に反して、大分明るい声。

以前の彼に会ったことはないが、暗部の人間がここまで優しげな顔をするのを
芳川はたいそう不思議に思った。

「それで、今度は死んでしまうかもしれないのに?」

「死ぬかよ」
519 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(東京都)[saga]:2011/06/15(水) 16:12:48.34 ID:YZioYUbTo

けらけらと笑いながら被検体はようやくこちらに目を向けた。

「俺だってただぶっ倒れてた訳じゃねえ。
 それに、今の状態じゃ、逆にどうやって死ねばいいんだ?」

「……」

「死なねえよ」

ゆっくりと、被検体の少年はラップトップをデスクに戻す。。

「これで色々チャラって約束だろ。
 まあさっさとブチのめして、退院したら学校にでも通ってやるよ。普通の学生らしくな」

芳川がはっと息を呑んだ。
パチリと口元を覆う。

「これが、死亡フラグなのね……」

「現実でそんなもんがあってたまるかよ!」

それでも研究者か、と被検体はため息をつく。

「そろそろ着替えるから、出ていってくれねえか?」

「本当に、やる気なのね」

「随分引き留めるな。やめて欲しいのか? それとも、俺に死んでほしい?」

「まさか」

芳川が少年の目を真直ぐに見つめた。

「私は死んでほしいなんて思っていないわ。無事でいて欲しいの。
 あの子にも、貴方にもね」

「はっ、俺もかよ」

「甘いのよ。私」

「優しくはねえらしい」

荷物から適当な服を見つくろう少年に、芳川は下げていた小さな紙袋を手渡した。

「これを」
520 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(東京都)[saga]:2011/06/15(水) 16:13:14.82 ID:YZioYUbTo

訝しげな様子で取り出してみる。

「……白衣か」

「聞いているでしょう?」

芳川の表情を探る。
何を考えているのだろうか。ただ茫洋と笑みを浮かべているだけに見える。

「酷え女だな」

「死んでほしくないのよ」

「俺が?」

「あの子も、ね」

「どっちか死ぬとしたら?」

「その時は……」

実験室から出ていく一瞬、先ほどとはまた違った角度で、芳川の頬がつり上がった。

「両方、半殺しになってもらおうかしら」

バタン。

スライド式のドアが数回バウンドして閉じていく。

「怖えなあ。女ってのは本当」

手早く衣服を換えて、少し躊躇った末に、白衣を羽織る。

「なあ? カザリ」

デスク上のラップトップに、「いってきます」とだけ打ち込んだ。


 Kaz:終わったら、パフェでも食べに行きましょうね!

 Tei:いってきます

 Kaz:いってらっしゃーい(*^ω^ *)ノシ


「死んでたまるかっつうの」

以前より大分短くなった髪と白衣の裾を翻し、被検体、垣根帝督は実験室を後にした。

無人の部屋で、ディスプレイがひらめく。


 Kaz:死んだら、許しませんからね。ばーか

  Kaz さんが オフライン になりました。

  チャットサービス を 終了しました
521 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(東京都)[saga]:2011/06/15(水) 16:13:52.41 ID:YZioYUbTo

病室の床に、白色の便せんがはらりと落ちた。

鈴科百合子の病室には、たった一人の人物しかいなかった。
はさみを持ってきた19090号が退室するまで待ったのだ。

真白く堅い紙の上を刃がすべる。
間から、厚い紙の束が舞い落ちた。

同じほど白いのではないかと思われる指がそれを拾い上げる。

手紙の始まりは、あの封筒の宛て名と同じものだった。

「すずしなゆりこ、さま、へ。」

手書きのくせに、いちいち振り仮名が振ってあった。

百合子はその気づかいに感謝し、また、自分に平仮名と片仮名を教えてくれた
19090号に何かお礼をしなければならないと思いつく。

丁寧な手紙は、こう続けてあった。

「突然こんな手紙を貰って、驚くか怖がるか、していないことを願っている。」

優しい人だ。

百合子はそう直感する。

「ただ、この名前にも覚えはないだろう。」

あくせられいた。

そうだろうか?
どこかで聞いている。

そう、見まいに来た者は大抵、百合子をその名前で呼ぶ。
間違えているのだ。百合子とあくせられいたを。

この人はぼくに似ているのだろうか。

「それに、自分のことはもう、忘れてしまっているかもしれない。多分、きっと。」

どくんと心臓が跳ねた。

忘れている。
自分が忘れていることを知っている。予感している。

その内容も、あるいは、この人物のことなのだろうか。
522 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(東京都)[saga]:2011/06/15(水) 16:14:18.88 ID:YZioYUbTo

「まずは謝りたい。何と言っていいのか分からないが、悪かったと思っている。」

何を?

「最初から話そう。百合子が産まれたところから。そして、自分が産まれたところからだ。」

産まれたところ。
どういうことだろう。

百合子の指が、便せんの上をのろのろと辿る。
震える指が上質な紙をめくる。

内容がよくわからない。
理解できない。
何度も何度も、指は同じ文章の上をなぞった。

「鈴科百合子は、」

ざりざりと思考にノイズがかかる。

まず、匂いだった。

湿気た畳。古くて、かさかさと毛羽が立っている、色あせた藺草の埃っぽい匂い。

そして、焦げ。生臭さ。鉄錆のような血液。水回りのぬるぬるとした黴。
建物の下の階に入っている蕎麦屋のダクト、使い古しの油の胸の悪くなるようなそれ。


                「あ、あ、、、あ、、、、、、、、、」


夕暮れ。光。オレンジ色。狭い、出窓のようなベランダから見える、ごちゃごちゃした町。
電線、烏、トタン屋根。線路と踏切。通り過ぎる電車。煙草の煙。隣の部屋。男の人。
ガムテープで張り合わせた擦りガラスの窓。剥がれた網戸。塀の上を野良猫が歩く。


               「い、、、、、、、、、、、や、だ、、、、」


                   無音の世界が回る。

           不意に、錆びた金属の階段を上る足音が聞こえた。


                        「あ」

523 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(東京都)[saga]:2011/06/15(水) 16:15:30.25 ID:YZioYUbTo





               「百合子、いい子にしていたの?」





            耳元で囁かれたそれが記憶をすりつぶした。
                   閃光。痛み。記憶。

                そして、あの音達が蘇った。





             どん→
        ピ↑      ↓              バタン↓
ザ――→         どん→      きぃ、             ふァん♪
    ガガッ  ガチャン↓    ↓
                どん→  ガリッ ――――→カン↑カン↑カン↑カン↑カン↑カン↑カン↑
                   ↓  ↑        
       痛          ザァアアアアアアアアアアアァアアアアアァァァアアアアァアァア↑
                                        ぱしゃ。



「あ、あああああああああああああああああああああああああああああああああああ、、」




                                苦
    じゃり↓   うわああ!ぁぁ! ァ→           ごぼ↑ごぼ→ごぼ↓
  トン♪              キ――――――――――z_____    バシャ
トン♪   ガチャ                                 ↓ 
 トン♪  ズキ↓ズキ↓ズキ↓ズキ↓ズキ↓ズキ↓ズキ↓
        ギィィィィィィィイィイイイイイィィィイィイイイィイィイイィ    げほっ! ごほ、ガガガガガガ↑





      病室の床、白い紙が、何枚も、何枚も、ひらひらと舞落ちていった。




524 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(東京都)[saga]:2011/06/15(水) 16:15:56.91 ID:YZioYUbTo

垣根提督は足音を忍ばせもせず、堂々と病院の廊下を歩いていた。

すれ違う患者たちが時折振り返って首を傾げる。
きっと白衣を身につけているからだ。

白いシャツのボタンを2つ開け、添えてあったネクタイは締めていない。
スラックスに裾をしまうこともしないが、クールビズだと言われればそれまでだ。

その上に飾り気のない白衣。

この街では白衣を着た人間などそう珍しくも無い。
ただ、彼はどう見たって医師にしては若すぎる。

それに、IDカードやペンや聴診器などの医療器具もなく、ただぱりっとノリの効いた白衣
白と黒の衣服だけを着せられた青年は、どこか浮世離れしている。

見かけない青年に、新しい研修医かしら、と当て推量されている。
それが手に取るように分かった。

「うぜぇなぁ。もっと目立たない服にすべきだったか?」

例えば、ここに居る大ぜいがそうであるように、寝巻か病衣。

「……締まらねえな」

これから始まる仕事を思い、垣根は首のあたりに手をやった。
体を戻す処置を受けた際に髪を刈ったのは数か月も前だが、やっとのことで
ベリーショートに生えそろった程度だ。

以前より少し柔らかい。それに、癖が出てしまっている。
何だか自分の髪ではないような気がした。

体に対してアレだけの負荷をかけたのだ。
様々なことが変化となって出ているが、ここが一番顕著な気がする。
知識としては分かる。その理屈も。

ただ、首の後ろを冷たい風が通った時、あの最後の一閃を思い出すのは、いただけない。

髪の伸びるのは早い方だが、それにしても、もっと早く伸びるべきだ。
いっそのこと、何とか能力を使って促進するなり継ぎ足すなり……

そんなくだらないことを大真面目になって考えている最中だった。

目の前を、今にもスキップしそうな様子の少女が通り過ぎたのは。
525 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(東京都)[saga]:2011/06/15(水) 16:16:23.29 ID:YZioYUbTo

19090号は浮かれていた。

百合子が笑っていた。
きっともう、大丈夫だ。

多分だが、何か体調が悪かったのだろう。
夕食は取ってくれるかもしれない。

そうだ、出かけて行って、林檎でも買ってこよう。
この前お姉様に飲食費を出していただいたのだから、少しは財布に余裕がある。
いつもよりいいものを買ってこよう。それで、自分が剥いてあげよう。

うきうきと弾む心に穴を開けたのは、廊下の真ん中をのんびりと歩く一人の男の姿だった。

「なんで、」

「あ……?」

男の茶色の瞳が何でもないような調子でこちらを向く。

胃が縮み上がって、喉に張り付いたような気になる。

「何故、貴方がここにいるのですか……? と、ミサカは率直に問いかけます……」

男がつまらなそうに肩をすくめた。

「何故って、そりゃあ」

「何故あれほど反対された計画の実行犯がそんな格好をしているのかと聞いています!
 と、ミサカは目の前の垣根提督を問い詰め」

「聞けよ、病院で、迷惑な奴」

ぐ、と言葉に詰まる。

「そりゃあ、さ。もちろん」

「っ、」

「計画がこれから実行されるから、に、決まってんだろ?」

何か考えたり、口に出したりする前に、体が動き出していた。

死角から斜めに打ち上げた体重の乗った拳を、垣根は表情も変えず
体軸を揺らしもせずに、片手一つで受け止める。

「危ねえな。ま、病院で電撃しなかっただけ上等か」
526 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(東京都)[saga]:2011/06/15(水) 16:16:49.93 ID:YZioYUbTo

掌に薄く張った未元物質の緩衝材を消滅させながら、垣根は首を傾ける。

「何でつっかかる? てめえの姉妹をあれだけ虐殺した、一方通行だぞ?」

「鈴科百合子は、このミサカの友人です。それを……」

体から漏れだす微弱な電流で、全身の毛がざわざわと逆立った。
動物が敵を威嚇するように、19090号ははぁっと息をつく。

廊下の向こうで、事態を見守っていた患者やナース達がさわさわとざわめいた。
能力者同士の喧嘩か?

「そんな、目の色変えて怒ること、ねえんじゃねえか?」

ギリギリと歯噛みの音が頭骨の内側に響いた。

「絶、対、に……許しません、と、19090号は第二位垣根帝督を、敵性と判断しました」

軍用に調整された妹達は、常に冷静であること。

あらゆる状況下で適切な判断をできるよう、脳内の興奮を抑えるように作られている。

だが例外がある。
実践登用されない予定だった上位個体の打ち止め。
憎悪から作戦遂行を確実に、とプログラムを書き変えた番外個体。

それでもそういった特殊な個体と彼女は違う。
最初からそう、と決められた訳ではない。

妹達としての機能を欠いているから、そうなのだ。

19090号は、初めて相手をこれほど憎悪した。

殴りつけてやりたい相手を、見つけてしまった。

「俺、病み上がりなんだけど」

「だったらミサカに大人しく倒されてください」

「違えよ」

言葉の途中で、19090号は下方に身を引いた。

膝を曲げ、堅い関節部の骨を相手の顎に向かって垂直に跳ね上げる。

「ならっ!」
527 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(東京都)[saga]:2011/06/15(水) 16:17:31.36 ID:YZioYUbTo

当たれば脳を揺らして昏倒するほどの衝撃になる。

「おっと、怖ー」

が、それも横に一歩分動かれて、空振り。

「く、」

流れるような動作で腰をひねり、遠心力を乗せた腕がしなる。
精いっぱいの速度で裏拳を米神に叩きつけようとするが、腕を取られて捻りあげられた。

「痛っ!」

「すげえな、軍用クローンてのは。急所しか狙ってこねえ……」

競技だったらどの種目でも反則とみなされるような、人体で人を殺せるような攻撃。
護身や演武ではない、殺人のための体術だ。

人体の最も堅い部位で、相手の急所を、いや、急所「しか」狙わない、えげつない動作。

ふーっと歯の間から熱い息を漏らしながら、未だに捻りあげられる左腕を引き抜く。

「おい、無茶するなよ。脱臼するぞ」

「余計な、お世話です」

肩の筋が伸ばされすぎてじんじんと痛んだ。
後で腫れるだろう。

「病み上がりなら、もう少しベッドでゆっくりできるように、してあげましょうか」

中指だけを飛び出させた右拳を左肩の上に振りかぶる。
一歩半で距離を詰め、垣根の左目に向かって拳を打ち出す。

「うおっ! っと、」

やっと体勢を崩したところに、脚の間を狙って左膝を跳ねあげた。

「てめ、!」

瞬間、白いものが視界をよぎる。

垣根の背後に溢れる翼が崩れたバランスを立て直す。
あと30cmだけ余計にバックステップを許してしまう。
528 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(東京都)[saga]:2011/06/15(水) 16:17:57.38 ID:YZioYUbTo

膝が局部を捉えきれず、垣根の太股に強かに当たった。

「いッ!?」

「ち、」

返した手刀で頸動脈を狙う。翼に弾かれた。

左手の指を立てる。
肋骨の下の肝臓に向かって正確に突きだした抜手は、僅かに脇腹をかすめた。

「てっめ、指、何してんだ!?」

「残念ながら、生身です!」

掠った脇腹から、僅かに服の繊維の焦げた匂い。

優れた体術に加え、出力の低いながらも安定した電流を纏い
指先を即席の電気メスとして振るっている。

「くそ、危険なことしやがるな」

「これでも欠陥電気の能力者ですので、生身だけというほどサービス精神はありません
 とミサカ19090号は吐き捨てました」

能力は状況次第でその質や量を変化させることもある。

例えば、非常なまでの興奮状態。それに誘発される集中力。高揚感。全能感。

だが、それが大切なことを見失わせることさえ、ある。

「ああッ!」

「っと、やべ」

例えば、垣根帝督が一度も攻撃らしい攻撃をしてこないことなどだ。

「だから、」

ぱし、と両腕を取られる。
手首に違和感。

「な?」

細い糸状の物質が両手の親指同士をくくりつけている。

「あ、ぐっ!?」

無理に離そうとして激痛が走った。
目に見えないほどの細さの糸が、皮膚に食い込み、真っ赤な液体が流れ出す。

「絹糸以下の細さで、カミソリ並みの切れ味。動くなよ。指が落ちる」
529 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(東京都)[saga]:2011/06/15(水) 16:18:38.58 ID:YZioYUbTo

垣根の指が頸動脈の脇を抑える。
身動きしたら血流をせき止められるだろう。

19090号はぴたりと静止し、殺意の籠った瞳で男を見上げた。

「ッ、畜生……っ!」

「女の子だろ? そういうこと言うな。可愛くねえ」

眉を寄せた表情。
単なる世間話でもしているような物腰。

気にいらない。
憎い。

殺したい。

19090号はぎりぎりと歯を食いしばった。

「酷えな……つーか、見境なさすぎだ。仮にもレベル5の能力者に向かって」

垣根の手が、血液を流し続ける19090号の指に触れた。

「痛ぁっ!?」

「動くな。大体、考えないのか?」

諭すような口調。

「あ!?」

19090号の脳裏に、焼きつけたような映像がフラッシュバックした。

病室。ベッド。百合子。


「19090ごう。ずーっと、だいすきだよ。」


がり、と掌に爪を立てる。
駄目だ。そんなこと、思いだすな。

目の前の垣根の唇から、こんな言葉が零れおちた。

「例えば、自分の血液から、1滴で致死に至る未元物質を生成されることとか、な」
530 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(東京都)[saga]:2011/06/15(水) 16:19:04.83 ID:YZioYUbTo

病院のリノリウム床に、真っ赤な鮮血が滴っていく。
そこに数滴、どす黒く変色した液体が落ち、混ざった。

どさ、と重たいものの落ちる音が聞こえる。
とっくに逃げ出した患者達の雑踏が遠くで被さった。

「だからさ、やめとけって」

短くなった髪をかりかりと掻きまわして、垣根はため息を一つつく。

明るい琥珀色の髪が、床にまばらに散っていた。

不自然に手足を投げ出して。
人形のように。

それをほんの少し哀れに思いながら、垣根はそんな自分を揶揄する。

そんなに甘ったれな人間じゃ、ねえだろう。

そして、それを通路の脇に蹴って寄せておく。
邪魔だ。
俺は、進む。

息を深く吸った。

消毒臭さに混じって、微かに、血の匂いがした。

もう一度、ため息が零れる。

ある少女の笑顔を思い出す。

彼女は笑う。

「……やっぱ女って、怖え生物だよ」

それでも少しだけ口角は上がっていた。
優しい角度で。

倒れた軍用クローンのことはもう頭になかった。

ただ、先に進むことだ。

かつ、と。

革靴が血液を踏んで歩く。

変色した錆色の足跡は、真直ぐ鈴科百合子の病室へと向かって行った。


548 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(東京都)[saga]:2011/06/17(金) 10:48:23.84 ID:ESRxbr9Go

『第一位 一方通行 改め 鈴科百合子 処分案件草稿』


本案件は、何らかの事故により昏睡に陥ったのち、一度も能力を発現させていない
第一位の超能力者、一方通行の今後の処遇についてまとめたものである。

およそ1カ月の間、チョーカーの能力使用モードを経由しての
MNWへのアクセス信号が確認できていないこと。

また一方通行の病状報告を見るに、記憶障害に伴い
能力の使用方法や演算式の著しい欠損が確認される。

これは回復の兆しが見られないものと判断する。

以上から、これ以上の一方通行の能力の進化
並びに今後の工業的発展を見込めないものとする。

またこの状態での能力使用は危険だという常任理事会の判断に則り
学園都市の第一位、及びレベル5の認定をここに取り消すものである。

ひいては所在の確認された第二位、未元物質を繰り上げで第一位とし
現状能力の暴走状態に陥ることが懸念される一方通行の処分をこれに命ずる。

尚第一位の肉体は、処分後に相応の研究機関で検体として引き取りが決定している。

なるべく損傷の少ない状態での収拾が望ましい。

特に脳の欠損があった場合は研究価値を大いに損ねる。

処分の担当にあたる垣根帝督には厳重に注意されたし。


19090号のポケットから、畳まれた紙が、ぽとりと床に転がっていた。

549 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(東京都)[saga]:2011/06/17(金) 10:48:56.51 ID:ESRxbr9Go

つま先に引っかけていたスリッパが、床にパタリと落ちた。

鈴科百合子はその音でようやく我に返る。

「、あ。」

床の上には、手の中から零れた白い便せんがばらばらと落ちていた。

慌てて膝をつき、それを集める。
手がうまく動かない。

目が、その手紙の中の単語を拾っていくばかりだ。

7年前、色素欠乏、打ち止め、義母、能力、古傷、実験、手術、虐待、研究、性暴力、
交代人格、先生、脚、ホルモンの減退、寄生虫、成長、木原数多、絶対能力進化。

「あ、あ、、、。」

かさ、かさ、と拾い集める度に零れていく。

落ちつこう。
深く深呼吸をした。

だめだ。

そのためには、絶対にこの手紙の内容を避けてはいけないんだ。

そう、強く思う。

「、、、かがみ。」

そう、それが必要だった。

今まで無意識がマスキングしていた、自分自身の姿が、今の彼には必要だった。

杖の握り手にぐっと力を込めて、鈴科百合子は病室から離れた洗面所へ向かう。
そこに鏡があったはずだ。

逸るのを抑えて、震える手をスライドドアのバーに乗せた途端。
それは勝手に開いた。

目の前に、白衣を着た男性の体があった。

「よお。久しぶり」

「あ、、、。」

優しそうに笑う、垣根帝督が、そこにいた。
550 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(東京都)[saga]:2011/06/17(金) 10:49:23.49 ID:ESRxbr9Go





              8 被虐待児症候群 後編




551 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(東京都)[saga]:2011/06/17(金) 10:49:56.16 ID:ESRxbr9Go

一見飄々と振る舞いながらも、垣根は内心動揺していた。

まさか、本当の本当にあの写真が本物だったとは。

突然目の前に現れた白衣の男に怯え、はくはくと唇を動かすだけ。
そんな、どこか白痴じみた少年に、俺はあんな風に潰されたのか。
一瞬の苛立ちが脳の下端を舐める。

はっ、はっ、と急いた呼吸が蒼白な唇から漏れていた。
かろうじて杖にすがる右手。病衣の襟を掻き合せ、胸を抑える左手。

すべてが、無防備すぎる。

「少し、話そうぜ」

「っ、あ、、、。」

手首を掴んでベッドに放り出してやる。
自分はその間に簡素なパイプ椅子を広げ、腰かけた。

「なあ、俺を覚えてるか?」

今にも泣きだしそうに顔を歪め、白い少年が困惑気味に垣根を眺めた。

白衣からむりやり視線を引きはがし、のろのろと、真っ赤な瞳が彼の顔を認識する。

「だ、れ。」

「垣根だ。垣根、帝督」

ぶつぶつと名前を口の中で転がしている。
本気で思いだそうとしている。

「ていとく、、、あの、ぼく、は。」

「お前は誰だ?」

「ぼくは、、、。」

声の出さないままに、唇が何度も形を変える。

垣根はその答えを静かに待った。

「す、ずしな、ゆりこ。」

「そうか……」

その答えに、垣根はため息をつく。

「……残念、だぜ」
552 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(東京都)[saga]:2011/06/17(金) 10:50:22.64 ID:ESRxbr9Go

ずちゅ、と熟れ過ぎた果物にナイフでも入れたような音がした。

「あ、、。」

百合子がそっと下に視線を移動する。

「、、、あ。」

病衣の裾が赤く染まっていた。
右下腹から、きらきらと輝く白いものが飛び出していた。

「っ、え、」

じりじりと熱く焼けるような鈍痛が百合子の体内を満たしていく。

「俺はこれから、お前をなるべく丁寧に殺すから。お前は出来る限り、さ」

「い、っゥ、、、。」

「もがき苦しんで、死ね」

ぐり、と腹に差し込んだ羽を奥にねじ込みながら、垣根は言った。

「……上がくたばったからって、繰り上がりの第一位か。
 ナメてんじゃねえぞ……この、三下が……ッ!!」

これまで腹の底にぐつぐつと煮詰めてきた憎悪が、垣根の中で爆発した。

軽そうな白い少年の体を、未元物質製の両翼が勢いよく跳ね飛ばす。

「う、あ゛っ、。」

窓の枠に強かに背中をぶつける。
片翼が勢い余ってガラスを突き破り、引き抜いた拍子に大小のガラス片が床に散った。

「てめえ、俺を何度絶望させたら、気が済むんだ?」

大きなガラスを踏み砕きながらベッドを迂回して、転がる少年の顔を覗いた。

「う、、、ァ。」

怯えた瞳。
痛みの所為で、生理的な涙がぼろぼろと零れている。

「――っ! てめえ!」
553 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(東京都)[saga]:2011/06/17(金) 10:52:45.09 ID:ESRxbr9Go

ごつ、と顎を蹴り飛ばす。

悲鳴をこらえているのだろうか。小さな呻きが上がった。

「てめえは誰だ? 学園都市の第一位じゃねえのかよ?」

「だ、い、、いちい。」

「一方通行じゃねえのか? あ?
 その辺のガキだって、ここまでされりゃもうちっとマシな顔するんだよ!」

先ほど裂いた腹の傷に向かって革靴のつま先をねじこむ。

「あ、っぐ、ァ、あああああ、、、。」

「よし。それでいい。もっと歪め。腑抜けた顔すんじゃねえ」

鋭い翼の先が、先ほどの傷のすぐ横を刺した。

「っぎ、あ。」

「痛みを感じろ。もっと睨め」

百合子は垣根の顔を僅かに見上げる。
視界にもやがかかっているようだ。

この人は、何をこんなに、

百合子は思う。

「聞いてんのかよ! もっと、「一方通行」らしい顔してみろっつってんだ!」

もう片羽が太股を貫く。

「あ゛っ、。」

何を、こんなに、悲しそうな顔、してるんだろう。

涙を溜めた膜が、一杯に膨れ上がる。

「だ、」

「あ?」

破れた腹に力を入れる。
切れかけた腹直筋がびくびく痙攣する。

「だい、じょうぶ、だよ、、。ていとく、ぼく、こわく、なァ、、。」

「……もう、喋るな」

ずるりと羽が引き抜かれた。

「殺す」
554 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(東京都)[saga]:2011/06/17(金) 10:53:11.64 ID:ESRxbr9Go

「ひ、ィ、っが、、、ッ。」

引き抜く。
突き刺す。
突き刺す。
捻る。
一度に引き抜く。

1センチずらしてもう一度。
同じ穴にもう一度。
ちょっと離してもう一度。
角度を変えてもう一度。
太股のあたりにもう一度。

脚、手首、腹、耳。

まるで挽き肉でも作っているのかという程に、執拗で陰湿。

ずちゃずちゃと泥を捏ねるような音がするたびに、指先から少しずつ体温が奪われていく。

死ぬんだ。

死んでしまうんだ。

ぼくも、

かさ、と指先に何かが触れた。
先ほど落としたままで、拾いきれずベッドの下に潜ってしまった便せんだった。

「すずしな ゆりこ さま へ」

「あ゛、く、ェら、れいた、ァ、、、。」

伸ばしかけた手の甲を、薄い羽がいとも容易く貫通し、床につなぎとめた。

「、、、ッ、か、ァっ。」

病衣の胸倉をつかんで揺り起こされる。

「思い出せ。反射があるだろ? なあ、せめて、一度くらい反撃してから死ねよ」

その掌に、乾ききった血液がこびりついている。

「あ、、、け、が、、して。」

「あ? これは俺のじゃねえよ」

「え、。」

「えーと、190……90、っつったか」

ゆるゆると真っ赤な双眸が見開かれた。
555 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(東京都)[saga]:2011/06/17(金) 10:53:39.94 ID:ESRxbr9Go

「馬鹿なクローンだよなあ」

「、え、、う、。」

「自分の姉を10031回も殺した男のために」

「、ゥ、そ、でしょ。」


「命がけで超能力者に向かってくるなんて」


世界中の音がすべて消え去ったような気がした。

垣根がゆっくりと掴んでいた手を離す。
床にずりずり倒れ込みながら、百合子は全身をのろのろ巡る血液の流れを聞いていた。

波のような血流の生み出すノイズの奥に、彼女の恥ずかしそうな声が混じる。


「その、ミサカもずーっと大好きですよ、とミサカは約束しました」


ざざざざざ、ざざざざざ、ざざざざ、ざざざ、ざざ、ざ。

病室の白い天井。点滴ポール。サイドボードとクローゼット。緑の病衣。血。赤い。寒い。
林檎。修道服。杖。常盤台の制服。冷たいシーツ。沢山の、ぼくの大好きな人たち。


倒れた床に散らばる沢山のガラスの欠片。

一つ一つに、百合子のことを見つめ返す少年が映って見えた。

髪は白い。
目が真っ赤だ。

変な色。

ぼくに、少し、似てる?

違う。

ざざ。

あくせられいたに、似てるんだ。

ざ。

どこかで鉄錆みたいな臭いがする。

ばちっ、と、スイッチの切り替わるような大きな音が聞こえた気がした。
556 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(東京都)[saga]:2011/06/17(金) 10:54:16.45 ID:ESRxbr9Go










                     ちいさいころは


           じぶンには、とうめいにンげンのきょうだいがいるンだ


                 って、ずうっとしンじていた。









557 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(東京都)[saga]:2011/06/17(金) 10:54:47.52 ID:ESRxbr9Go

動かなくなった鈴科百合子の脇腹を踏みつけて、垣根帝督は深い悲しみを感じていた。

これで、俺がメインプランだ。
そして、全部終わりだ。

だから。

足の下でビクンと彼が痙攣したのに気付くのも、遅れた。

彼がまるで、長い眠りから目覚めた人のように目を瞬かせ、周囲を見回したのも。

床に広がる血液を見て息をゆるりと飲んだのにも。

明確な意識を持って、チョーカーのスイッチを切り替えるのにも。

反応が、少しずつ遅れてしまった。

ずるずると流れ出した血液の池が縮んでいく。

逆再生のように血液を吸いこんで、白い髪の長めな頭が床を離れる。

「……オマエ、」

「あ?」

その間から、真っ赤な瞳が、煮えたぎるような殺意を持って垣根を睨みつけていた。

「……何、てことを、しやがったンだ。この……」

体を氷水につけられたような悪寒を感じながらも、垣根の唇がつり上がった。

「よお、久しぶりだな」

いっそ、このまま殺してしまおうと思った。
それを引き留められた自分を垣根は褒めてやりたかった。





                      「一方通行」

                   「クソ野郎がァ……ッ!」





                学園都市最強が、目を覚ました。
558 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(東京都)[saga]:2011/06/17(金) 10:55:13.99 ID:ESRxbr9Go

ここまで。
あっさり仕立てです。

それでは! 
559 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします[sage]:2011/06/17(金) 11:20:04.77 ID:iBpUv2wDO

一方さんが出てきたのに救われる気がしない
百合子が消えそうで怖い…
560 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(関東)[sage]:2011/06/17(金) 12:22:20.95 ID:PaJAkzZAO
>>1乙!!
垣根ぇぇぇえ!!!!俺の百合子に何してくれとんじゃああああ!!!!!!
と思ってたら俺の代わりに一方さんが出てきてくれた。
561 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(東海)[sage]:2011/06/17(金) 12:36:22.97 ID:Qy8lradAO

おかえり一方さん 
596 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(東京都)[saga]:2011/06/23(木) 18:18:20.25 ID:acoi21DOo

朝。
ゆっくりと冷たい色の光に満たされていく街並み。

まだひたひたと水中のような冷やかさが漂う時間だ。
大抵の人は寝静まっている。新聞配達のバイクの音が、時たま聞こえる。

軋みそうな二階建てのアパート。
擦りガラスで部屋から隔離された、まるで出窓のように狭苦しいベランダ。

小さな白い足がひたひたと足踏みをくり替えした。

「ねェ、さむい、ね」

小さく小さく虚空に話しかけるのは、ほんの幼い少年だ。

見た所は5、6歳の少女。しかし、実際は9歳の少年である。

この年頃の3歳差は相当なものだが、彼はどうみても他の9歳と同年齢とは見えない。
最も、彼が他の9歳児と並ぶことなどなかったので、その点心配はいらなかった。

「どうしよう」

ひたひたひた。

音を立てないようにしながら、足踏みがせわしなくなる。
不ぞろいな薄い栗色の髪に、少し透けるような飴色の瞳。色素が少しばかり薄い。

身につけているのは、寒空の中、大人用のTシャツ一枚だ。
それがワンピースのように膝上まで覆って、すそを流してあった。

ささくれた、今にも腐り落ちそうなベランダを踏む足は少しばかり擦り切れている。
もちろん素足だ。寒さに色を失っていた。

ひたひた、と足踏みする少年の耳元に、囁くような声が聞こえた。

「俺が変わってやってもいいけど。我慢できねェンなら」

うーん、とむずかるような声を上げて、それに応える。

「だめ、かわるとき、ちからぬけると、でちゃう、から」

「じゃ、ダメだ」

足踏みは止まらない。

下腹部が重い。
いくら少年が飲食物を与えられていないと言っても、昨晩からうすら寒い室外に
一晩中追い立てられていたために、限界まで尿意をこらえて立っている。

「おこられる、ね」
597 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(東京都)[saga]:2011/06/23(木) 18:18:46.38 ID:acoi21DOo

恐々、といった様子の少年に対して、耳元の声は淡々と答えていく。

「ああ、殺されるな」

「い、やァ、だな、」

「俺が変わってやるっつゥの」

「やだっ、そンな、ひどいのできない」

「何のための俺ですかァ? ったく、甘ちゃン百合子ちゃン……!」

「それやだっ、いうの、いじわる、い」

たしたしたし、と足踏みが少し早くなる。
細すぎる両腕が腹部をぎゅうと抱きしめて、ぶるりと震えた。

「……オマエ、結構限界?」

「、、、ン」

「マズイ。非常にマズイぞ」

「う、う、ァ、まずい、、、」

2人の声に深刻そうな調子が混じる。
事態は急を要するのだった。

まさに、死活問題なのだ。彼らにとっては。

「風邪ひく可能性がある。というか確実だマジで。あの女しばらく帰ってこねェだろォし」

「やだやだやだ、あれ、たいへン、だもン」

「ああ。いただけねェ」

2人は以前風邪をひいた時のことを思い出す。

体調はひどいもので、熱が出てふらふらと傾いで歩く少年に、同居している女性は
「とろとろ歩くんじゃありません」と足の甲に煙草を押しつけたものだ。

「窓外せねェ?」

「むり、」

「飛び降りて下に逃げる」

「む、りっ、」
598 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(東京都)[saga]:2011/06/23(木) 18:19:12.71 ID:acoi21DOo

ごにょごにょ。ぶつぶつ。

2人の会話は、一見すると小さな少女が独り言を呟いているようだ。

どこか異常な光景。
ただし、2人にとっては、唯一のコミュニケーション。いつものパターン。

少年の瞳は自分の目の前の中空を愛おしそうに捉える。
まるでそこにもう1人の瞳があるかのように。

「寒いなァ」

「さむいっ、」

「怒られる、よなァ」

「おこられるっ、」

「まァ落ちつけよ? な? まだ勝機はある。諦めンじゃねェ。ガンバレガンバレ」

「う、く、ゥ、ううう、、、」

もはや走っているように高速で足踏みしながら、少年は応える。

その時だった。

ギシギシ軋むような音を立てて、低い鉄柵を挟んだ隣家の擦りガラスが開いたのは。

「あっ、」

ベランダに薄白い煙がすっと横切った。
煙草の濃い匂いが少年を取り巻く。

そして、銜え煙草でぎょっとしたように少年を見据える隣家の住人と目があった。

「……ああ、うわ、サイアク」

露骨に顔をしかめる。
無精ひげに、伸び放題の黒髪。日焼けした体に実用的な筋肉がついている。
どんより落ちくぼんだ下まぶたと頬に泥が撥ねて、首には汚いタオルが巻いてあった。

少年の姿を見て嫌悪感をあらわにし、窓を閉めようとする隣家の住人。
しかし、今日の彼は必死で食らいついた。
599 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(東京都)[saga]:2011/06/23(木) 18:19:38.84 ID:acoi21DOo

「た、たすけてっ」

「うるせえガキ! 毎朝毎晩ギャーギャー喚いて俺の身にもなれ! 壁薄いんだ!」

「いいから、といれっ、かしてっ」

「あぁあ?」

男は一瞬ポカンと口を半開きにしてから、慌てて窓の外に転がり出てきた。

「おい待てマジで待てガキこらウチのベランダと繋がってんだ漏らすなオイ」

まるで教養のなさそうな早口がとりとめもなく漏れる。

「といれ、かして、」

区切って繰り返す少年の顔はとっくに紅潮しており
足踏みも止めることができないために、ひどく息が上がっていた。

「お前中入れよ!」

「あかないっ」

「中に誰かいねえのかよ! 窓叩いてみろ!」

「いないし、そんなのできないっ」

「何で!」

「ぶたれるのやだっ」

「知るかッ!」

「むり、でちゃううっ」

「あーもう! こっちこい!」

言われる前に、少年は既にベランダを隔てる鉄柵の傍に寄っていた。

男の汗臭い両腕が脇の下を乱暴にすくい上げ、担いで室内に放り込んだ。

「あっ」

「そこそこ! 玄関脇! 急げバカ!」

自分の家とは左右対称の部屋の作りに混乱しながらも
少年は全速力で古びた汚いユニットバスに飛び込んだ。
600 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(東京都)[saga]:2011/06/23(木) 18:20:08.45 ID:acoi21DOo





                -8 しかたない 窓編




601 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(東京都)[saga]:2011/06/23(木) 18:20:43.35 ID:acoi21DOo

「……ン?」

突然の隣家の住人に、慌てて姿を隠したはずだが。
気付いてみれば汚いユニットバスの中だ。

一応、下腹部に重みが無いこと、足元が無事であること
目の前にある便座の中をざぁざぁと水が流れていることを鑑みて考える。
どうやら最悪の事態は免れたらしかった。

しかし、ここはどこだ?

いつも見ている風呂場と対称に配置された浴室に、黴と安い石鹸。
それに、薄いアンモニア臭。覆い隠すように冷たいライムの匂いが漂っている。
洗面台の上のシェービングクリームの匂いだろうか?

ともかく蛇口を捻ってぞんざいに手をすすぎ、浴室から抜け出した。

「おい、汚してねえだろぉな」

「うわ」

仁王立ちで見下ろしてくるのは、先ほどベランダで見かけた隣の部屋に住んでいる男だ。

詳しくは知らないが、見た目からして、土木系の作業員でもしているのだろう。
土埃と汗の臭いがした。

なるほど、こっちの部屋に潜りこんだか。上出来と言える。

「ああ……うン。大丈夫」

男は一応背後のドアを開け、浴室内に変わりがないか見まわしてから
ふん、と一つため息をついた。

「よし、んじゃ帰れ、ガキ」

何てことだ。冷たい奴。

しかし、こんな条件の悪い住宅に住んでいるのだ。
どの道大した倫理観の持ち主ではない。

せめてもう少しくらい慮ってくれてもいいだろうに、と思いながらも
まあ仕方ないか、とも思ってしまう。

自分だって、隣に時間構わずギャンギャン喚くガキがいたら、たまらない。
むしろ一度しこたま蹴飛ばしてやらないと気が済まないだろう。

つまり、蹴飛ばされないだけマシか。
602 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(東京都)[saga]:2011/06/23(木) 18:21:19.43 ID:acoi21DOo

「あのさァ」

「んだよ」

「水飲ましてくンねェ? もう半日飲ンでねェンだよ」

口の中の唾液が粘度を増しているような気がして、気分が悪かった。
余程、さっき洗面所の蛇口から啜ろうなどと思った。
が、蛇口まわりの埃と黴の密集地帯に流石に閉口したのだ。

百合子なら飲んだだろう。
先のことに希望を持つ方ではない。

だが、まだそこまでは、できない。
くだらない期待をして、チャンスを逃してしまう。
悪い癖だ。けれど、百合子にない考え方を持っていることは、自分にとって必要だ。

男は面倒そうに舌打ちをして、台所とは名ばかりのシンクを指差した。

「飲んで来い」

「やった!」

話せるじゃないか。

すぐさまシンクに乗り出して、細く蛇口をひねる。
首を傾けて流れる水をぴちゃぴちゃと啜り始めた途端、襟首をガシリと捕まれた。

「うァ!? な、何しやが」

「何してんだこのバカ!」

「はァ?」

「コップ! 使え!」

口の周りをびっしょりと濡らして、首を傾げる。
男はそれを見て奇妙な違和感を感じた。見た目と、言動の、小さな齟齬。

「なンで?」

「そういうモンなんだよ! あと蛇口の水は生水だからやめろ」

ここのアパート、水道管古ぃんだからよ、などといいながら、男は冷蔵庫を開ける。

シンクの洗いかごにあった大ぶりの湯飲みに、作り置きらしい麦茶をたっぷりと汲んで
目の前の子供に持たせてやった。

「ほら」

「……これ、飲ンでいいの?」

「飲めよ」
603 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(東京都)[saga]:2011/06/23(木) 18:22:25.05 ID:acoi21DOo

両手でそっと受け取る。
恐る恐る唇をつけて、一口、二口、とちびちび啜りこむ。

こくこく喉を鳴らしているが、飲み方がひどい。下手だ。
湯飲みを傾け過ぎるから、口を付けた両端からびたびたとこぼしている。

男は顔をしかめたが、何も言わずに小さな子供が喉を鳴らしてそれを飲み干すのを待った。

「ぷァっ、はあ……!」

「……あ、もっといるか?」

「ン、あの、あとちょこっと」

シャツの胸の部分をちょっと持ち上げて口元を拭う。

元から汚らしかったシャツにできた染みはとくに目立つ。
広がった襟ぐりが肉の薄い胸に張り付いた。

「汚ぇなあ。服もっとまともなのねえのか」

「ない。というか、これがあるだけマシなンだよ」

ごしごし、とぬぐうために、裾が持ち上がる。
棒のように細い二本の脚が太股まで露出した。

「……おい、まさかてめえ下」

「ない」

「うっげええ! 変態じゃねえかあの女! 廊下で合うときゃすました顔して!」

「うるせえ、おっさン」

飲み終わった湯飲みをそっとシンクに戻しておく。

「おい」

「はァ?」

「飯は食ってんのか」

「……食ってねェよ? ここ2、3日」

男は背筋に何かつめたいものを感じた。
自分は3日絶食していてここまで生意気に振る舞えるだろうか。
ほんの少しの異常の臭いを、そこに嗅ぎ取った。
604 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(東京都)[saga]:2011/06/23(木) 18:23:34.86 ID:acoi21DOo

「……おい」

「ン」

がさがさ、と軽いビニールのなる音がして、目の前にずいと突きだされる。

「……何、これ」

「ハンバーグ弁当。廃棄の」

元から訝しげだった表情のまま、かっくり首を傾げる。
ようやく、年相応の仕草に見える。

「ハイキ?」

「コンビニの、賞味期限切れのだよ。タダでくれんだ、これ」

「食えンの?」

「バカ、数時間しかオーバーしてねえんだから」

「ふーン」

「反応薄いな。食らいつくかと思った」

「?」

「やる」

「え!」

ぱぁっと表情を明るくする。

男は一瞬安心する。ああ、ただのガキだ。普通の。その辺に居る。

「くれンの! 食っていい?」

「ああ。暖めてやる」

なんだ?

男はまるで自嘲気味に考える。
俺は、このガキを憐れんでいるのか?

「おっさン、食べ物あンの?」

「ある。3つ貰って来たからな。昔馴染みで、くれる所なんだよ」

「ふゥン? 俺も行ったらただでもらえンの?」

「俺だけ」

「何だァ、けち」
605 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(東京都)[saga]:2011/06/23(木) 18:24:53.59 ID:acoi21DOo

結局弁当を綺麗に完食し、麦茶を1杯催促し。
男は隣の家のベランダに子どもをそっと戻してやった。

「俺が寝てるときにギャンギャン泣き喚くんじゃねえぞ」

「そンなのわかンねェもン」

「わかんなくてもだ」

「?」

「うるせえから。泣くな」

「? あー、ごめン」

「ふん……」

ベランダの隅に腰を下ろし、満腹のためか瞼を重そうにする。
そんな少年を見ずにすむように、男は擦りガラスのサッシを勢いよく閉めた。

また追い出されていたら、茶くらいなら飲ませてやってもいいだろう。
警察とか、児童館? などはよくわからない。そこまでするほど、男は善人ではない。

誰だってそういうものだ。

偶然会った野良猫に、弁当のおかかご飯を一口食わせてやることがあるかもしれない。
しかし、その誰もが野良猫を片っ端から保護して飼ってやることはない。

一時の慰め。
ひとかけらの、自尊心を回復させたいがための行為だ。

しかし、それは責められるべき態度ではない。
誰だって野良猫を引き取る財力はない。
この男もまた、そこまでしてやる筋合いはない。この少年の母親に憎まれたくない。

まっとうだった。

そして、この少年自身がそれをまっとうだと理解していた。

それでもいつか、誰か素晴らしく優しいヒーローが現われることを期待していた。
まだ、この時は。

救いを望み、幸運が起きることを祈っている少年は、1人。
寒々しいベランダで膝を抱えて丸まっている。

「百合子、食いもン、食えたぜ。俺が食っちゃって、ごめンなァ……」

ただ、少年にとっては、そこにいるのは1人ではない。
もう1人の片割れと、よくわからないがもっと多くの人の気配が、彼の中に渦巻いていた。


635 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(東京都)[saga]:2011/07/01(金) 11:43:36.13 ID:ST8qUYgyo

軋みながらサッシを勢いよく引く音で、鈴科百合子は目を覚ました。

体中が痛い。強張っているのだ。

幅の無いベランダでうずくまるようにしている体勢を変えないまま、息をつめた。
その状況を断片的に呑んでいく。

眠っていた?
どのくらい長くだろう。外は既に明るく、太陽が真上を過ぎている。

刺すような空腹感が消えている。喉の渇きもそれほどではない。
遠くのほうで誰かが言っていた、食事をとった、というのは自分のことだったのだろうか?

そして、自分を見下ろしている人影に気づいた。

全身の温度が無くなり、胃が重くなる。冷や汗がどっと出ているのが分かった。

「百合子」

「、あ、」

「お返事は? 百合子」

「はい、」

同じ部屋で暮らす女性は、ベランダのガラス戸をひいて、こちらを静かに見つめていた。

何かがおかしい。
いつもならば、とっくに髪を握られて部屋に引きずりこまれているはずだ。
殴るか、蹴るか、煙草を押しつけるか、首を絞めるか、風呂に沈めるかしているはずだ

もちろん、帰ってくるまでそこで立っていなさい、と言いつけられたのだから。
これは自分の落ち度だ。彼はそう考える。

そもそも、今ここにいるのは、全て自分が悪いのだ。

髪を長くのばしておくように、とかたくかたく、言われていた。
そのはずなのに、キッチンのはさみを盗んで勝手に短く切ってしまったのは自分だ。

風呂に入れてもらえないために、砂埃や汗などで痛み、ごわごわになって絡んだ部分。
それをなくそうとはさみを入れる度に、髪はどんどん短くなり、元は腰まであったのが
肩につくかどうかという短さになった。

鬱陶しい重さは無くなったが、その髪を見た途端、女は逆上して百合子の首を絞めた。
切った髪が部屋に散らばり、はさみはベタベタに汚れ、使いものにならなくなっていた。
636 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(東京都)[saga]:2011/07/01(金) 11:44:03.69 ID:ST8qUYgyo

すぐに風呂場に連れていかれ、水に顔をつけられた。
必死に謝ると、今度はずぶ濡れのまま、まだうっすら寒い夜のベランダに追い出され。

立っていろと言われたのが、うずくまって惰眠をむさぼっていたのだから仕方がない。
どんな罰を受けろと言われても、はいと頷くしか許されない。

がたがたと震えるのを必死に押さえる。
しかし、かけられたのは今まで聞いた中で一番と言っていいほどの優しげな声だった。

「お部屋の中にいらっしゃい」

「え、」

「おいで。あら、ほっぺたに痕がついちゃってるじゃない。可哀そうに」

細い親指で頬をなすられる。
ひっ、と息を詰めたが、それは抓ることも爪を立てることもなかった。

「百合子」

「あ、、、」

いつ元の状態に戻って痛みを受けるか、と怯えながら、百合子はサッシをまたいだ。

温くなったベランダとは違い、室内はひんやりと冷えている。
そんなことを思った途端、目の前の女が膝をつき、視線を合わせた。

「やっ、」

両腕を上げて頭をかばう。

しかし、殴打はこない。
そろりと腕の隙間を覗くと、女は泣いていた。

「ごめんね。ごめんね百合子」

「う、、、」

しゃくりあげながら女はただ泣く。
百合子には、それがどうして泣いているのかわからない。

だからいつものように、その長い髪を撫でて、抱きしめた。

「お、かァさン、は、、、あの、、、なンにも、わるくない、よ、」

「百合子……ごめんね。ごめんなさいね」
637 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(東京都)[saga]:2011/07/01(金) 11:44:30.11 ID:ST8qUYgyo





                -8 しかたない 偽編




638 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(東京都)[saga]:2011/07/01(金) 11:45:03.47 ID:ST8qUYgyo

変だ。

今まで弱った姿など数えきれないくらい見てきた。
泣いて、癇癪をおこすのだって、珍しいことじゃない。でもこんな風に謝るのは初めてだ。

「なかないで、ごめンなさい、ぼくが、わるいから、おかァさンは、わるくない」

昔から何度も何度も、教えられた通りに、鈴科百合子は台詞を繰り返す。

「つらかったね、ごめンなさい、わるいこでごめンなさい」

「百合子、ありがとう。愛してるわ」

「あい、」

「大好きよ」

「、」

わからない。

あいしてる?

だいすき?

それは、ぼくのことが嫌いではないということなんだろうか?
そんなことを、百合子は考える。

この人が、ぼくを大好き? 本当に?
でも泣いている。泣いているときは、この人は大抵、本当のことしか言わない。

じゃあ本当に?

百合子の視界にもやがかかる。

「ほ、ほンとに、、、」

「本当よ」

「ぼく、ぼくのこと、きらいじゃない」

「大好きよ。愛してるわ」

「ふ、」

ぎゅう、と抱きしめられた。
今まで泣いて縋られたときの、どんなときより優しかった。
639 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(東京都)[saga]:2011/07/01(金) 11:45:36.61 ID:ST8qUYgyo

涙がぼろぼろと零れていくのが分かる。

自分の意志とは関係なしに、喉がしゃくりあげるように動く。

苦しい。でも、嬉しい。

「お母さんのこと嫌い?」

「きらいじゃないっ」

慌てて首を振る。
そんな風に思うわけがなかった。そういう風にできているのだ。

鈴科百合子はこの女なしでは生きていけない。そう育てられている。

「じゃあ大好き?」

「はい」

甘い香水の匂いがした。
女が出かける時に吹き付ける、花を煮詰めたような香りだ。

部屋は6畳に、申し訳程度のキッチン、ユニットバスの古びて汚らしい安普請なのに
この女はいつも身綺麗で、華やかな装いをしていた。

埃まみれの玄関には、まるで似つかわしくない白革と金の金具のついたミュール。
フリルのたっぷりとついた少女趣味な薄いブラウス、ベージュのスーツ。
薄いストッキングが脚を覆っている。拒食症のように全身が細い。

そして、ピンク色に光る唇を尖らせて、百合子の名前を呼ぶ。

「お母さんのこと許してくれる? 今まで沢山いじめたこと、なかったことにしてくれる?」

「うン」

躊躇いもせず、少年は頷く。
女の顔に薄い笑みが浮かんだ。

「誰にも言わないでくれるのね?」

「いわ、ない」

ああ、と感極まったような声を上げて、女は鈴科百合子を抱きしめた。

「いい子ね。とってもいい子」

「いいこ、、、」
640 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(東京都)[saga]:2011/07/01(金) 11:46:04.01 ID:ST8qUYgyo

かっと頬が熱くなる。
そんな風に言われたのは、もしかしなくても初めてかもしれなかった。
嬉しい。

殴る代わりに頬を撫で、首を絞める代わりに抱きしめられて、罵る代わりに褒められる。
そんな、ただ当たり前のことだけで、頭の芯がぼうっとして、涙が止まらなくなった。

この時間が永遠に続けばいいのに。

そう少年は思う。

そして、そのあまりの幸福感が、目隠しをする。
彼の中の目には見えない片割れを眠らせたままにしたことが、全ての間違いだった。

きっと、その片割れがこのことを知っていたら、烈火のごとく怒っただろう。

何を企んでいるのだ、と。
今更何を言っている、と。

そして服を脱いで、全身に浮きだした醜い痣を見せるだろう。
これをつけたのはオマエだ、と言うだろう。

何故ならこの片割れには、そういう教育がされていない。
絶対的に女を慕うように出来ていないのだ。

だから、7年経っても眠っていた方はそれを悔やんで苦しみ続けることになる。

女は少年の頬を白い両手で挟み、恋人にするように口づけた。

「私の可愛い百合子。愛してるわ」

「、」

ぎゅっと抱きしめ、頬を摺り寄せる。

「あらあら、ずっと外に居たのね。砂埃でざらざらよ」

自分がそうしていろ、と言いつけたのに、まるで関係のないことのように女は言う。

百合子はびくりと体を強張らせて、身を引いた。
砂で汚れた自分がくっついていたら、女の服まで汚れてしまう。

「あ、ご、ごめンなさ、、、」

「いいのよ。おいで、お風呂に入りましょうね」

「はい、、、」
641 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(東京都)[saga]:2011/07/01(金) 11:46:30.61 ID:ST8qUYgyo

湯は温かかった。

冷たくも、熱すぎもしなかった。
タオルを泡立てて、女は百合子の全身を手早く洗い流してくれた。

その間中、ずっと好きとか、愛しているとか、囁いた。

不思議に思いながらも、百合子はこれが夢なのではないかと不安になる。
もし何かあったら目が覚めて、この優しい人は消えてしまうんだ。

だからシャンプーをするときに目を瞑るのを、ほんの少しだけ嫌がった。
女は一瞬困ったような顔をしたが、大丈夫、と優しく笑って、髪をすすいでくれた。

いつもだったらタイル壁に叩きつけられてもおかしくない筈なのに、と思いながら
爪も立てず、優しく髪を掻きまわす指にとろとろに溶けた眠気を感じていた。

「さあ、綺麗になったわ。出ましょうね」

「ン、、、」

うつうつと船を漕ぎながら、百合子は瞼をこじ開けて応える。

洗剤と日の匂いのするバスタオルに包まれ、ドライヤーで髪を乾かされた。
部屋の大きな姿見を見て、百合子は眠気を吹き飛ばした。

知らない子だ。

バスタオルに包まってこっちを驚いたように覗いているのは、栗色の髪の子どもだ。

まるで爆発に巻き込まれたかのようにぐしゃぐしゃと絡んでいた髪は3回も洗い流され
小児特有の細っこく、癖のない頭上につやが浮かんでいた。
ドライヤーで丁寧に乾かされたために、くるりと内側に向かってカーブを描いている。

先の方がギザギザと不ぞろいなのは、きっとキッチンはさみで無理に切ったからだ。

血も砂も埃も付いていない頬が白く、最近は顔を殴られていなかったので痣も傷もない。

「百合子、こっちにおいで。お洋服着るのよ」

慌てて洗濯機から先ほどまで着ていた汚らしい大人用のTシャツを引っ張り出す。

「違うのよ。やだ、これ本当に汚いわ……」

そう言って、女はシャツをゴミ箱に入れる。

「あ、」
642 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(東京都)[saga]:2011/07/01(金) 11:47:16.37 ID:ST8qUYgyo

「今日はこっち」

そう言いながら女が紙袋から取り出したのはブランド品らしい子供服だった。

「はい」

「、でも、」

「いいのよ。今日はこれでいいの。ね?」

「、、、は、い」

有無を言わさない様子に、百合子は大人しく頷いた。
今更特にそれを嫌だとも思わない。
ないよりマシだ。

服なんて着られればいい。そう彼は思っている。
だから気にしない。それがどんなデザインだろうが、サイズが少々あってなかろうが。

まして、今日女に差し出されたものはサイズだけならぴったりだった。

濃い灰色のハイネックシャツに、黒と茶のタータンチェック柄ジャンパースカート。
シックで大人しく、まるでどこかのお嬢さんのような出で立ちだ。

「これ、あの、おンなのこ、、、」

スカートの裾をつまむ。

流石にそれくらいは知っていた。

「嫌?」

首を左右に振る。

この程度で、嫌だ、とか不快だなどとは思わない。
Tシャツ一枚より全然まともな服装だ。あれよりずっといい。

だから、ただ不思議なだけだ。

女の子の服を自分が着てもいいんだろうか?
きれいな服だけどやっぱり汚したら不味いんだろうか?
いつも通り部屋の隅に丸くなったら、埃がつくのだろうか?

「そう。それじゃここに座って」

女は床に古新聞を敷いて、百合子を座らせる。
首元にタオルを巻き付け、はさみを取りだした。
643 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(東京都)[saga]:2011/07/01(金) 11:47:43.07 ID:ST8qUYgyo

「あっ、ごめ、ごめンなさ、、、」

銀色に光る刃物を見た途端、百合子の全身が震えだした。

立ちあがって逃げることはしない。
だがひどく青ざめて、ぶるぶると震える。

刺されるか、どこか切りつけられるかもしれない。
咄嗟に、一番切り落とされそうな耳を押さえる。

が、慌てたのは後ろの女も同じだったようだ

「いいのよ! 百合子、大丈夫。絶対に痛くしないから、ね?」

「ァ、う、うァ」

「大丈夫よ。座って。髪を揃えてあげるから」

「は、ゥ、ああ、う、、、」

恐る恐る耳から手を離す。
しかし、痛みだけはいつ襲いかかってもいいように、堅く目を閉じて待ち構えた。

「いい子」

軽い櫛が、癖のない髪をさっと梳いた。
さくさくさく、とはさみの動く軽い音がする。

何度も、何度も、すくっては整える。

襟足のあたりで斜めのギザギザになっていた毛先が、半円を描いて揃えられていく。

「お、かァさ、、、」

百合子は震える声を無理に上げる。

「うん? 何かしら」

「あ、りがと、ございます」

さくん。

はさみの音が止まる。

「……そうね」

「、」
644 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(東京都)[saga]:2011/07/01(金) 11:48:10.11 ID:ST8qUYgyo

「さ、できた」

タオルを外され、髪を掻きまわされる。
細かい毛が散って、見違えるように清潔にされた百合子を、女はじっと見つめた。

「百合子」

「はい」

「お母さんのお願いなら、聞いてくれるわよね」

「、はい、だれに、も、いわない、、、」

「それもあるけれど、あのね……」

「、」

女は悲しそうな顔を無理やり作り変え、百合子の細い体を抱きしめた。

「お父さんのようになってはだめ。これ以上そっくりになってはだめよ」

「お、とォ、さン」

百合子は首を傾げる。

たまに聞く、その人間はいったい何をやらかしてしまったのだろう。
違う。その人が何をしたか、話は聞いている。そらで言えるくらいに聞いた。

でも意味がわからない。
それが何のことだか、百合子には理解することができない。それだけだ。

「そう。その薄い色も、顔立ちも、同じよ。だから、だめ。ああなっては、だめよ」

「はい、」

「ね、お母さんがそうしてあげるから。ね。百合子も頑張るの。いいわね」

「はい」

「間違えたら治してあげるから、一緒に頑張るのよ」

「はい」

「……いい子」

もう一度だけ、女は少年を抱きしめた。
まるで、恋人にするように。頬に口づけてから、初めてその手を引いて部屋を出た。
645 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(東京都)[saga]:2011/07/01(金) 11:48:36.38 ID:ST8qUYgyo

金属製の階段を下りる時に、買い物帰りらしい、隣の家の男とすれ違った。

百合子はそれに手を振った。
お礼を言いたかったが、女が歩き続けるので、やめておく。

男は百合子の姿を見て、少し考えるような素振りをした。
それでも手をひく母親の姿を見ると、顔をしかめて早足ですれ違っていってしまう。

少しだけ悲しかった。

「どこ、いくの」

「いいのよ。歩けるでしょう?」

本当は足が痛い。靴を履くなんていつぶりだろうか。
少し歩いただけで膝がギシギシ言った。

「はい、」

百合子は従順だ。

そう出来ている。

少し歩いた先にある通りで、女はタクシーを拾った。
物珍しそうに窓の外を眺める百合子を窘めて、自分は煙草に火を付ける。

信号に引っかかって停車した隙に、彼女は、ふ、と煙を吐きだした。

「明日は、雨かしらね」

遠くに見える雲を眺めて、女は吐きだすように言った。

百合子はただ、雨の日にベランダに出されるのは嫌だ、とだけ考えている。

そして、彼の片割れの透明人間は、まだ、眠っている。

信号が青に変わる。
運転手がアクセルを踏み込む。

この日から、鈴科百合子の悲劇はさらに加速していく。 
673 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(東京都)[saga]:2011/07/14(木) 18:56:04.14 ID:I+vBpSWNo

こんばんは。遅くってすみません。やっと鯖落ち解除されましたね!


今日の投下分はちょっとグロいです。いつものよりもう少し増しくらいの感覚です。
人に寄っては「うぷっ」「おげぇえ」となるかもしれませんので、先に注意。
読み終ってから「大したことねーじゃん!」って言われるかもしれないですが、一応ね。
特に差別とか馬鹿にしているといった意図はありません。

それじゃ投下します。 
674 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(東京都)[saga]:2011/07/14(木) 18:56:40.61 ID:I+vBpSWNo

タクシーが一台、細い道の手前で止まっている。

ガラス製のドア越しに1人の男がそれを眺めていた。

男のいる建物は古びていた。
一見、廃墟になった診療所にも見える。看板はない。

白い外壁、擦りガラスの窓がある一階と、その後ろに西洋建築風の3階建があった。

真横から見たら綺麗なL字型。横の線が診療所、縦の線は自宅だろう。

大通りから入って、すぐ路地を折れる。
それしかこの「病院」を尋ねる手段はない。

看板も掲げていないため、ここに訪れるものなどほとんどいないと言っていい。
近くに総合病院があるのも理由だ。ここは人目を外れている。

男は眠たそうに目を擦る。

久々の来院者かとタクシーの乗客を待ち構えている。

建物は昔風だが、少しばかり間口が大きい。
ガラスの重いドアとやや広めの出入口は、昔は患者がすれ違ったのだろう。

今は薄暗く、誰もいない。
寒そうだ。そう見える。

先ほどからぽつぽつ降り始めた雨の匂いが染み込んでくる。
消毒液の匂いに混ざり、無機質だ。

男の周りだけ、白いカップに入った紅茶の香りが漂っている。

一口啜りこむ。
熱い液体がじりじり舌を焼いた。

車から人が降りる。

女だ。
長い黒髪をゆったりカールさせて、趣味のいいスーツを着ている。
地味すぎない華やかさを持った女。金の使い方を知っている。

タクシーの支払いを済ませながら、道路に斜めにピンヒールを下ろす。

いい。優雅だ。
だがさほどそそられない。

ただ金払いが良さそうだ。そうであってほしい。
男はそれほど成人した女の体に興味は持たない。
675 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(東京都)[saga]:2011/07/14(木) 18:57:23.18 ID:I+vBpSWNo

女の後から小さな影が車を降りた。
さほど背の高く見えない女だが、その胸に届かないくらいの子どもだ。

母親と娘に見える。

先を行く母の後ろに、娘は遅れないように必死についていく。

歩き方がおかしい。足が悪いのだろうか。
よく訓練された犬のように、ひっきりなしに母親の顔を伺う。

なるほど。

客らしい。

男は立ちあがって、隣の椅子の背にかけてあった白衣を取る。
アイロンをきちんとかけたシャツの上からそれを羽織り、ネクタイを正した。

紅茶のカップを給湯室に下げて、かつての受付カウンターを回りこむ。

来院者の母娘のために入り口の重いガラス戸を開けてやりながら、男は笑みを作った。

和やか、人当たりのいい、と言われてきた笑顔で唇を開く。

「お入りになられますか?」

「あ……」

女は一瞬ひるんだようだ。

そこそこ大きい診療所だ。
白衣を着た男は、場所も手伝ってどこからどう見ても医師に見えた。

わざわざそれが玄関で出迎えるのだから、どこか奇妙な齟齬がある。

少し躊躇い、斜め後ろについてくる子どもを振り返る。

「、」

振り返られた方は、きょとんと母親を見つめ返す。
何のことか分かっていない。

女はほんの少し堅い笑みを返す。

「はい、お願いいたします」

看板の無い病院に、3日振りの来院者がやってきた。
676 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(東京都)[saga]:2011/07/14(木) 18:58:07.09 ID:I+vBpSWNo





                -8 しかたない 診察編




677 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(東京都)[saga]:2011/07/14(木) 18:59:29.49 ID:I+vBpSWNo

「どうぞ」

「ありがとうございます」

診察室とは名ばかりの、豪華な絨毯敷きの部屋だ。

ビーンズ型というのか。歪な楕円型のテーブルにティーセットが並べられている。
それを挟んで母娘と男は向かい合った。

淹れなおした紅茶を一口分口に含んで、男はまっさらなカルテを一枚用意した。

「それで」

女が僅かに肩を揺らす。緊張しているのだろうか?
それも、無理な話ではない。

くるりとペンを弄ぶ。特にカルテに熱心になるつもりはない。

「当院のことはどなたからお聞きになりましたか?」

単に癖のようなものだ。

以前勤めていた職場では、何もかも記録する決まりになっていた。
医務室での処置や、檻に入った実験体の治療に使用した薬品の量も。

ペンをコトンとテーブルに落とすと、女は観念したように口を開いた。

「こちらの方からお話を」

差し出された名刺は、先日確かに男の所へやってきた1人の女性の物だ。
たしかその女性は妊娠29週目の胎児を堕胎するためにここへ来たのだったか。

薬物で弛緩させた彼女の子宮口から胎児を掻きだす手ごたえを思い出す。
取り出しやすくするために内部で3つに切り分けた体は、すでに人間らしい形をしていた。

胎児の遺体は廃棄した、とその女性には説明した。
実際は切り取ったパーツをつなぎ合わせてアルコールを満たした瓶に詰めておいた。

海外の死体マニアに二束三文で売り飛ばしたその標本は
パーツに分解して取り出したために学術的な価値はあまりない。

だが、ちょっとした思いつきで手を入れれば愛好家にとっての価値は跳ね上がる。

手術用の糸でなく、刺繍用の赤い糸でつなぎ合わせてやったのを
アーティスティックだとか何とか絶賛されて、長々としたメールを受け取っていたはずだ。
半分も読まずに削除してしまった。
678 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(東京都)[saga]:2011/07/14(木) 19:00:03.79 ID:I+vBpSWNo

ああいう変態の考えることはわからない、と男は思う。

送料や代金の他にチップを含めてたっぷり入金されていたのを記憶していた。
だからその母親の女性の名前は覚えていた。

稼いでくれた名前の次に、顔よりも健康そうな肉色の粘膜を鮮明に覚えている。
何もその女性に性欲を覚えたからではない。
ただ好きなのだ。人間の中身を感じることが。

「ああ……この方ですか。術後、お元気ですか? 定期健診に来ないもので」

「え? ええ。元気そうでしたが」

「そうですか」

女は目の前に出されたティーカップを手にするが、口元には運ばない。
しばらく掌を温めるようにカップを包んだ後、ソーサーの上にかたりと戻した。

「紅茶はお嫌いでしたか?」

「……いえ」

「何も入っていませんよ」

男は自分の目の前のカップを取る。

何も、この男は人殺しではない。
むしろ逆だ。医師として沢山の命を救っている。

ただ、事情があって病院に行けない人間に治療を施すのが仕事なだけだ。

車に撥ねられ、引きずられた患者を治療する。
様々な薬物のカクテルを呑んだオーバードーズ患者に胃洗浄や心肺蘇生を施す。

健康な人間の小指を切断することもあるし、小さな鉛の塊を肉を抉って探すこともある。
かと思えば、平凡な女の腹から胎児を掻き落したりもする。

糖尿で要介護の老人に「うっかり」インスリンを大量投与したこともあった。
借金の溜まった人間から、肝臓や腎臓や、角膜や骨髄や血液を抜くことさえある。

助けを必要をしているものに手を差し伸べているだけだ。
そして、その結果ただ困るものもいるというだけ。
だから別にこの女を殺すつもりはない。紅茶を不味くするつもりも。

ゆっくりと抽出されたウバの、少しオレンジに似た香りが湯気に乗って顔に当たる。
ティーカップの内側で揺れる同心円状の揺らめきを眺めた後で、そっと告げる。

「おいしいですよ」

「あ、ええ……」
679 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(東京都)[saga]:2011/07/14(木) 19:00:42.09 ID:I+vBpSWNo

誤魔化すように唇を付けた女の横で、小柄な少女がぼんやりとカップ眺めていた。
微笑みを張りつけて声をかけてやる。

「ミルク、入っていたほうがいい?」

「あ、」

子どもは嫌いじゃない。

男は薄く微笑んで牛乳の入ったポットをとってやる。
それに気付いて、女が思い出したように少女を振りかえり、ぎょっとしたような顔をした。

まるで今まで全く忘れていたかのようで、まるで一瞬誰だか分からなかったようだった。

男がほんの少しだけ眉を顰める頃には、女は元の澄まし顔を取り戻している。

「百合子、どうなの? ミルクいただく?」

自分の子供に話しかけるには、随分と緊張を孕んだ猫なで声だ。

百合子と呼ばれた少女は困ったようにカップと男の顔、そして母親らしい女を見比べた。

「え、ゥ、あの、」

「そうね、入れてもらいましょうか。熱いと飲めないわね。ね?」

「はい、」

「お砂糖も?」

「、」

何のことだかよくわからない。

幼い表情は明らかにそう告げている。

女はそれを無視して、各砂糖とミルクをボチャボチャとカップに落とした。
男の表情が少し険しくなる。

飲食物を無碍に扱ったり、何もしていない子どもを乱暴に扱うことを、彼は好まない。

粗雑に混ぜられたミルクティーのカップを握らされて、少女はおろおろと辺りを見回した。
母親をそっと見上げ、男の顔色をちらちらと伺う。
どうぞ、というように軽く頷いてやると、緊張した面持ちで華奢なカップに唇を付けた。

こく、こく、と、細い喉が滑らかに動く。
680 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(東京都)[saga]:2011/07/14(木) 19:01:14.80 ID:I+vBpSWNo

「は、」

一気に三分の一ほどを飲み終えて、しげしげとアンティークのカップを眺める。

「……紅茶が好きなの?」

「あ、えっと、あの、」

優しく問いかけたつもりだった。
少しだけびくついてから、小さな手がカップをもたもたと握り直す。

「こうちゃ、」

「うん? ミルクティーが好きなの?」

少女が母親を見上げた。女は頷く。

「、はい」

「……そう」

会話を打ち切ると、少女は小さく息を吐いた。

す、とカップの縁から香を吸いこんで、残った紅茶をちびちび舐めている。
細い指は職人が手描きで入れたカップの模様をなぞる。
磁器を物珍しそうに眺めているのを見て、男は大分機嫌を持ちなおした。

母親よりまともそうだ。
来客用にしてある気に入りのティーセットを出してよかった。

「それで、今日はお願いが」

女は少し尖った声を出す。
面倒くさいが仕方がない。そちらを向くと、やや緊張した視線とぶつかった。

「どんなご相談でしょう?」

この建物に来る者の8割が、無理な注文をつける。
だから、きちんとビジネスを成立させられるのは全体の7割以下。

できることならまともな相談を受けたい。
女の唇にじっと視線をそそぐと、それが一瞬震えて、こうつぶやいた。



「この子を女の子にしていただけませんか」


681 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(東京都)[saga]:2011/07/14(木) 19:01:45.43 ID:I+vBpSWNo

「……はぁ」

男の口から、らしからぬ声が漏れ出た。慌てて掌で顔の下半分を覆う。

女は不安げな表情で男を見上げるようにした。

「無理、でしょうか」

「いえ、いや……そうですか……」

未だにカップを膝の上に抱える子どもを眺める。
不思議そうにかくりと首を傾げる様は、あどけない。

男の子だったのか。

少しの落胆を覚える。
しかし、そうやって眺めても、ジャンパースカートの裾から伸びる白い脚は細く。
その折れそうな首の上に乗った頭蓋がきれいな卵型を描いている。

少女らしいということはない。単に服装が女物というだけだ。
この年頃で性差を決めるのは、服装と髪型。そして言葉遣いだ。

ただ少女、もとい少年は、無口な子どもというより、動く人形と言った方がしっくりくる。
元から喋るための機能を十分備えていない。そういう印象だった。

「あの、先生?」

女が遠慮がちに声をかけた。

我に返った男は、慌てたそぶりも見せずに短い唸り声を上げた。

「それは、今すぐに性別の転換を望むということでしょうか?
 それとも将来的に女性体に近づけるよう、長く「治療」をしていくといった……」

「いえ、今です」

「なるほど。仰ることはよくわかります」

こっそりとため息を漏らす。

この女は多分それほど賢くない。
説明が面倒だった。

「まず確認しますが、人間の体というものは……
 人形のパーツように取り換えたり修理したりできるものではないのですよ」

「それは」

解っています、と動き出しそうな唇を掌を立てて遮って
男はゆっくり椅子の背もたれに体重を預けた。
682 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(東京都)[saga]:2011/07/14(木) 19:02:13.40 ID:I+vBpSWNo

「性別の転換は、可能です。しかし、不可能だとも言えます」

「?」

「前提として、男性を女性に、女性を男性にすることはできないのです」

女が怪訝そうに眉を寄せた。

昨今のテレビメディアに取り上げられた性同一性障害のドキュメンタリーでも
半端にかじって鵜呑みにしたのだろう。

男は手元に白い紙を一枚用意し、すっと横一本の線を引いた。

線の左端に「男性」、右端に「女性」、と書きいれる。

「手術で外性器や骨格を変えることは出来ます。
 これは専ら切除することが中心ですが……作ることもある程度は可能です」

「つくる?」

男の持ったペンが、線の一番右、「女性」の字を指し示す。

「例えば、男性体に近づけるため、女性の乳房や子宮卵巣を切除する。膣を閉じる。
 これは切除の方面で、」

目の前の女の瞳が目いっぱい見開かれた。

ペン先はゆっくりと線の上を滑り、左端の「男性」に近づいていく。

「作ると言うのは、ホルモン治療で肥大させた陰核に延長させた尿道を通して
 擬似的に男性器を形成する手術を行う、といったような……聞いていますか?」

女の顔色が悪くなった。

こういった性に関連する手術は、健康な肉体にあえてメスを入れる行為だ。
性別の不一致で悩み続けた人間にとっては、大変画期的な方法だと思えるかもしれない。

だが、一般に女性の体を持ち、女性として暮らし、それに疑問を抱かない。

そんなような人間からすれば、健康な肉体を抉るなど想像もつかない。
ピアスの穴を開ける話をするだけで貧血を起こすものまでいるのだ。想像に難くない。

「……はい、」

「だから、それだけの手術をしても」

紙の上の線を辿るペン先は、「男性」の文字の手前でピタリと静止した。
683 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(東京都)[saga]:2011/07/14(木) 19:02:42.40 ID:I+vBpSWNo

「その女性は完全な男性にはなれないでしょう」

「はぁ、それは、元が女性なんですから……」

「そう。細胞は女性のものです。性染色体が。
 ……中には外性器と性染色体の合致しない方もいますが。それは今は無視します」

女が理解しがたい、といった表情を見せる。

こういった問題を手早くまとめるのは難しい。
どうしても誤解や認識のズレを埋めることができない。

「簡単に言うと、男性として子どもを残せないと言うことになります。
 もちろん子宮や卵巣も切除しましたから、女性としても妊娠は望めません」

つまり、どれだけ体の外観を弄っても、生殖機能ばかりは持たせられないと言うことだ。

将来的に体細胞からヒトクローン胚を作ることができれば話は変わる。
自分のDNAを持つES細胞を卵母細胞として人工授精を行うことは理論上は可能だ。
ただ、それはあくまでも理論であり、繊細な技術はまだあの都市ですら不可能だろう。

説明はしない。
そこまで言っても仕方がないからだ。

話を続けるために一呼吸置き、またペン先を「女性」に戻す。

「では、ホルモン投与による治療だけを受けて、生殖器に手を入れない場合です」

「どうなるのですか?」

ペンが線の中央からやや左、「男性」の側に寄る。
しかし、「男性」の文字からは大分距離があった。もちろん「女性」からもだ。

「外見は男性寄りでしょう。ただ胸部、腰部のシルエットはまだ女性に近い」

ペンの先が、「男性」と線の真ん中をほんの少し行き来する。

「男性ホルモンの影響で縮小はするでしょう。が、女性ホルモンは分泌を促せば……
 月経は起こります。当然妊娠も不可能ではありません」

「外見が男性でも、ですか」

「そうです」

なんとか理解は示したらしく、女は軽く頷いた。

男は目を上げずに、ペンを揺らす。
684 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(東京都)[saga]:2011/07/14(木) 19:03:10.99 ID:I+vBpSWNo

「次に、子宮や卵巣など生殖器と乳房を切除。
 ただし男性ホルモンの投与、陰茎などの外性器形成手術は行わない場合」

「ええと、切るだけで、作らないと?」

「そうです。その場合は」

ペンが線の中間からやや「女性」寄りをふらふらと彷徨う。

「これは、乱暴な言い方をすれば、不妊症の女性と変わりません。
 妊娠は出来ませんが、見た目は少々中性的な女性です」

とん、と紙の上にペンが転がった。

「ホルモンが大変減少しますので若干体調を崩す場合がありますが。
 同じようなことは男性にも言えます。性別を逆にしていただければ結構です」

「はぁ……あの、今のお話は何が?」

「ですから……」

男は軽い苛立ちを覚えた。
この女は話の前提すら覚えていないというのか。

「今お子さんはまだ小さい。性別を決定しているのは外性器くらいでしょう」

「え、ええ……」

苛立ちを僅かに含んだ声に、女がほんの少しひるむ。

「その外性器すら、生殖活動を行えるとは言えません。それとも、もう精通が?」

「せ……」

女が舌をのどに詰まらせたような音を発した。

「お子さんはおいくつですか?」

「はち……いえ、9歳、かと」

男が顔を上げる。「かと」だと?

退屈だったのか、眠たげに瞳を蕩かしている少年をちらりと見やる。
この少年の母親ではないのか?

「い、え。9歳です」

「……まあ結構です。私はそういったことには深く立ち入るつもりはありません」

慌てて言い直す女に向かって冷たく言ってのける。
悔しそうに唇を引き結ぶのを無視して、男は話を続けた。
685 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(東京都)[saga]:2011/07/14(木) 19:03:37.63 ID:I+vBpSWNo

「精通は?」

「……ありません」

当たり前といえば当たり前だ。

9歳で精通のある子どもは少ないだろう。
その上この少年は9歳児相当にすら見えない。
彼に言わせれば未発達極まりなかった。

「まだですね。つまり、今この子は中性よりの男性ということになります」

再度取られたペンが、線の中間、やや左の「男性」側を指す。

「この時期から少量ずつ女性ホルモンを投与すれば……」

「注射を?」

「思春期ごろには、かなり女性らしい体つきになります。
 場合によっては豊胸手術を施さなくても乳房ができますし」

「胸が大きくなるんですか?」

「まあ、可能です。乳房に関しては男女の性差はあまりないのですよ。
 男性に女性ホルモンを投与すれば、母乳だって分泌できますからね」

何事か考え込み始めた客を余所に、道徳心に欠ける医師は冷めた紅茶を一口啜った。

子どもは好きだ。
だが、ビジネスを優先しなければいつか飢えて死んでしまう。

だから止めない。

当の本人は、浅く腰かけた体勢のままでうつらうつらとまどろんでいる。

「ホルモン治療は、結構です」

女の言葉に視線を戻す。

「そうですか。では手術は何年後に」

「え? 今してください」

「今?」

ため息をついた。
686 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(東京都)[saga]:2011/07/14(木) 19:04:30.87 ID:I+vBpSWNo

「あの……聞いていませんでしたか?
 精通の無いうちに生殖器を除去すると子どもが出来なくなるんですよ?」

「結構です」

「いえ、その、精通が来てから、一旦精液を採取して保存しておくべきです。
 将来的に子どもを授かりたい時に人工授精を」

「結構です! この子は子どもなんてつくりません!」

静かな院内に女の声はヒステリックに響いた。

「……そうですか」

「ええ……」

「いえ、しかし問題はそれだけではありませんから」

女は面倒そうに顔を顰める。

こっちだって面倒だ。
男は出会ったばかりの依頼人に嫌悪感を抱き始めていた。

「男性から女性型に転換する場合は……
 精巣を切除した後の陰嚢の皮膚で外陰唇を形成するんです」

陰嚢に詰まっている精巣をこそげ落とす。
その後で、その包んでいた皮膚を切除、縫合して外陰部を作る。

性感を得る部分は敏感な神経が通っているべき場所だ。
だから、元からその部分にあたる組織から形成しなければならない。

同じように、陰核形成は陰茎の亀頭部を切除、縫合して形成しなければならない。

「それに、この体格ですと造膣できません。
 腸の粘膜を使うのですが体格的にそのスペースもなく、そもそも腸粘膜を採取できるか」

「ぞうちつ……お、女の性器を付けるということですか?」

「そういうご相談では?」

「違います! そういう、「付ける」手術はしないでください!
 ホルモン治療もいりません!」

「あぁ……そうですか」

いらいらと組んだ指を組み換え、ぎゅうと力を込める。
勝手な母親だ。
687 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(東京都)[saga]:2011/07/14(木) 19:04:57.25 ID:I+vBpSWNo

「では精巣を無くすということですか? パイプカットではなく?」

「パイプ……何ですか?」

「人間の男性に行う去勢手術ですよ。傷も少なくて済みます。
 精巣を除くのではなく、輸精管……ええと、精巣から精子を運ぶ管を切るのです」

これなら手術は簡単だ。
もちろんこの年齢の子どもに施すことは法で禁じられている手術だが。

「子どもは出来なくなりますか?」

「もちろん。精液に精子が混じらなくなりますから。
 精液は出ますから、人口の無精子症のようなものです」

「管を切って……出るんですか」

「あの、精液の主成分は前立腺分泌液なんですよ?
 精巣に直接精液が詰まっている訳でもない。色も見た目も術前とは変わりません」

「それは困ります!」

「……」

この女の言いたいことが段々と輪郭を持ち始める。

彼女の脳内のビジョンが方法に可否を示す度に、その不定形なものが外殻をつける。

「つまり、こういうことですか?」

男はトン、と机にペン先を下ろした。

線の中央。
「男性」とも「女性」とも離れた、まったくの中間点。

「男性でなくすこと。子どものできないようにすること。精液の出ないようにすること。
 女性器は付けず、つまり、性感を無くして、セックスのできない体にしたい、と」

「そ、そうです」

ほっとしたような笑顔を、女は見せた。

「まあ、可能です。陰茎、精巣、陰嚢を取ってしまえば……しかし」

今すぐには無理でしょう。

その言葉に女は息を呑む。
688 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(東京都)[saga]:2011/07/14(木) 19:05:25.49 ID:I+vBpSWNo

「9歳と言われましたが、この子は体格的には5、6歳程度。
 もう少ししないと、まだ器官が完全に出来上がってもいませんから」

「そんな……でも、早くしないと」

「まあ、精通が来てしまいますからね」

目に見えて焦る依頼人に、男は少し機嫌を良くした。

「陰茎は、尿道が通っていますから、もう少ししてからの方がいいでしょう。
 ただ精巣は多分……」

「切れますか?」

「難しいですが、切除可能でしょう。ただ本当に子どもを作ることは出来なくなりますよ」

「はい! 結構です! お願いします!」

心底嬉しい、と言わんばかりの笑顔で、女は横に座っていた少年を振り返った。

そして、とろとろと転寝してしまっている姿を見つけ、たった1秒で部屋が凍りついた。

「百合子っ!」

女の怒声と共に、バチン、とやたらに大きな音が響いた。

頬を張られた小さな体が、もんどりうってテーブルの角に額をぶつける。
そのまま床に落ちて小さく悲鳴を上げた。

「あんたって子は、何でそうなの! 人があんたのために先生の話を聞いてるんでしょ?」

ふらふらと上体を起こした子どもの腹を、スリッパのつま先が容赦なく蹴り抉った。

「あ゛ゥっ、」

「お母さんがお話しているのに寝てていいの? ねえ、百合子! どうなの!」

「ご、ごめ、なさ……ア゛っ」

謝ろうと口を開いた頬に再度平手が飛んだ。

「口答えするんじゃありませんっ!
 お母さんは百合子がちゃんとした大人になってほしいから言ってあげてるのよ!」

「は、ィ、ありがとォ、ございます、ごめンなさ、、ぼくがわるいです」

「そうね。駄目よ、百合子。これからは勝手に寝ちゃだめ、いいわね?」

「はい、」
689 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(東京都)[saga]:2011/07/14(木) 19:05:52.18 ID:I+vBpSWNo

頬と額を押さえて、零れそうに膨れ上がる涙の粒を必死に押しとどめ、
少年は母親の足元で這いつくばるように頭を下げている。

男は絶句していた。

薄い色の瞳が、テーブルの下から男を見上げる。
その瞳は恐ろしく純粋だった。

「助けて欲しい」でも「かばって欲しい」でもなく、「この人にも謝るべきだろうか」と。

男の腰の裏辺りに冷たいしびれが走った。

「……落ちついてください。彼はもう、僕の患者ですから。怪我されると困るんです」

わざと冷静な声を出すと、母親はばつの悪そうな顔で椅子に戻った。

「すいません。この子、ちょっと頭が緩いものですから。
 厳しく躾けないと分かってくれないんです」

「知的障害が?」

「いえ。単にばかなんです。まともに喋れませんし、字も……」

女は何でもないことのように言う。
単に、ばかなんです。

男の内心で黒い淀みが溜まっていく。

「そういえば、手術の際はここに入院することになりますが、よろしいですか?」

「え? ええ、まあ」

「学校はどうしているんです? 長期的な入院を挟みますよ」

「学校?」

女が不思議なものを見る目で男を見上げた。
濁った瞳だった。

「ああ……そういうものには、通っていないんですよ。登校拒否なんです」

「……そうなの?」

床の上で茫洋と中空を見上げる少年に声をかける。
緩慢に振り向いた顔が、ほんの少しの笑顔に歪み、かくりと首を傾げた。

「はィ」
690 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(東京都)[saga]:2011/07/14(木) 19:07:07.12 ID:I+vBpSWNo

男はその後、時間をたっぷりと使って支払いの金額を決め、
2週間後から検査のために入院を始めることを決めた。

まず検査をし、その後で慎重に精巣切除手術の日程を決める。
陰茎の方の手術は数年後、と約束を取り付けた。

普段だったらここまで丁寧なことはしない。

ただ、女の払おうとした金額が相当なものだったこと。
それに、あの少年の眼が気にいった。それだけだった。

帰りにふらふらと立ち上がる少年を呼び止め、男は低い頭を見下ろした。

「お名前は?」

「百合子です」

母親が間髪いれずに答えた。
それを視線で黙らせて、見上げてくる濃い琥珀のような色の瞳を覗き込む。

「お名前は?」

「ぼ、くは、ゆりこ、です」

「そう。よろしくね」

「あの、あ、、、」

「うん? ああ……僕は先生でかまわないよ。百合子、くん」

「せンせェ、」

「……そうだよ」

くしゃりと髪を撫でる。
不思議そうに首を傾げる少年から無理に視線を引きはがす。
男は母親の女性に向き直り、そっと内ポケットの名刺を差し出した。

「そういえば、こちらの名刺をさし上げていませんでしたね。
 遅ればせながら、こういうものです」

「頂戴いたします」

女は名刺の名前を見て、少し言い淀んだ。

「ああ、変わった名でしょう? うちの家系は皆、そういう変わった名前を付けるんです」

「はぁ、何と読むのですか? きょ……」

「失礼しました。それは……「こくう」と読むのです。よろしくお願いします」

「はい、先生」

女の手の中の名刺には、くっきりした明朝体で、「木原虚空」と印字されていた。 
716 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(東京都)[saga]:2011/07/30(土) 16:04:09.75 ID:OqmhV86Xo

目を開けると、夕日が差し込んでいた。

不自然な律動。
煙草や消臭剤の臭い。
レースのカバーのかかったシート。

「タクシー? なンで外に……」

寝起きのように、一つ欠伸を漏れた。

「ン?」

体がだるい。
なるほど。極度の眠気を感じる。きっと限界だったのだろう。

そこで俺が替え玉になったというわけだ。

女の姿を目で探すと、助手席で運転手とぽつぽつ話をしていた。
振り向きもしない。

大方、百合子の隣に座るのも嫌だし、顔だってできるなら見たくない、という辺りか。

ふ、とため息をついて、シートに寄りかかる。
普段座らされる擦り切れた畳より数倍は質のいい空間だった。

ブラブラと足を揺らした途端、俺は叫び出しそうになった。

実際に叫ばなかっただけ褒めてくれてもいいと思う。
代わりに変な声が出て、女がきっと振り向いた。

「何?」

「あ、ううン、なンでもない……」

「ああ、そう」

咄嗟に百合子のぼやっとした口調を真似てやる。
これには慣れている。

女がさっさと前に向き直ってから、俺は改めて自分の、百合子の体を見下ろした。

肌触りのいい綿のハイネックシャツ。ウール地のトラッドなスカート。

女物じゃねェかよ……

顔が引きつる。
一体何があったと言うんだ。

唇を舐めると、僅かに甘かった。
717 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(東京都)[saga]:2011/07/30(土) 16:04:36.82 ID:OqmhV86Xo





                -8 しかたない 監獄編




718 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(東京都)[saga]:2011/07/30(土) 16:05:03.67 ID:OqmhV86Xo

「ぐずぐずしないの」

タクシーの支払いを早々と終えて、女は早足で先を歩いていく。
まったく足の短い百合子のことなど考えてもいないだろう。

クソアマ。

筋力不足のやわな両足を動かし、なんとか蹴飛ばされない範囲で女の後を追う。

「ねぇ、アンタ分かってるんでしょうね?」

「え? あ……な、なにが?」

声は冷たく苛立っている。
寸前で「百合子のふり」を取りつくろって、俺は僅かに女を見上げた。

びちん、と太いゴムが弾けるような音。
耳から頬にかけての皮膚がはぎ取られたようにひりつき出す。

「っ、ゥ……」

「生意気な目……やめなさい!」

「はい、ごめンなさい」

大人しく謝り視線を足元に落とす。
これがお望みの対応だ。

本当は掴みかかってやりたい。
白くやわい肌をつねり、蹴って、爪を突き立て、くじり、噛みついてやりたい。

そして、それがどんな気持ちか知らせてやれたら……

俺にはできない。

百合子の体を傷つけるチャンスをやることはできない。
それに、俺はそういうためのものではないのだから。

「そう、出がけに言ったでしょう。忘れたのかしら」

「ァ?」

「他の人に言わないってことよ。よくできたわね」

女はちょっと指を反らして、掌だけで俺の頭を撫でた。
ぞっとする。吐き気をぐっとこらえて、深く息をつく。
719 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(東京都)[saga]:2011/07/30(土) 16:05:30.19 ID:OqmhV86Xo

出がけ。

俺じゃない。
聞いたのは百合子か。そして、その約束を守って「よくできた」のも百合子だろう。

本来ならこのぞんざいな褒め方をされるのは百合子だったのだろう。

ほんの少し唇をかむ。
百合子なら喜んだだろう。

一杯に目を見開き、ボンヤリとした笑顔をうかべて、はい、なんて従順な返事を添えて。

奪ってしまった罪悪感がねっとりと全身を覆って行く。
たとえどうしようもない女でも、百合子は彼女を「あいしている」。

そういう風に作られた、関係があるのだから。

「ずっとよ。ずっと、誰にも言わないの。いいわね」

「? はい」

あとで百合子に聞く必要がある。

何があったのか。
何を約束したのか。

そして俺もそれを守らなければならないだろう。
今上機嫌な女は、きっと約束を破れば激怒する。

百合子の体を傷つけるのはいけない。
できることなら、次に褒められるのは百合子でなければならない。

全部聞いて、演じなければならないのだ。

俺が百合子で、でも、百合子は俺ではない。

俺は何の名前も持たず、無個性で、感情を与えられ、ただ、百合子の代わりに――

「早く来なさい」

ふと気付くと目の前には錆びた金属の階段。
女は数段上から面倒臭そうな顔で俺を見下ろしていた。

足を上げて階段をぎこちなく登っていく。

貧弱な筋肉がぎしぎしと軋んで、息があがった。
720 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(東京都)[saga]:2011/07/30(土) 16:05:56.33 ID:OqmhV86Xo

外に出ることなど週に1度あればいいほうだ。

大抵は、女が感情に任せて、出ていけ、などと叫んだ時だけで。
それは決まって深夜で。
俺も百合子も靴など穿かずに、這うようにして近所の児童公園まで逃げた。

遊具の中で震えながら一晩明かし、朝になって恐る恐る戻る。
女がどこに行っていたのと横面を張り飛ばす。

これがお決まりのパターンだった。

少なくとも俺も百合子もそんな夜が嫌いではなかった。

公園の蛇口から流れる水はいくら飲んでも叱られなかった。
清潔な水で傷口を洗ったり冷やしたりできた。

ゴミ箱から誰かの食べ終わって捨てた弁当の残りを漁ったり、
運が良ければ身の少し残ったフライドチキンなんかを拾うことが出来た。

どう見ても女物の服を汚さないよう気を付けながら、俺は階段を上った。
女はため息をつきながら部屋に先に入って行った。

生きていることは幸せだった。

俺も百合子も、理由は違った。

俺は百合子が好きだった。
まるで、ペットが飼い主を慕うように、俺は百合子に全て任せられた。
そのためなら何でもできた。何でも。

俺と話をして、大切にしてくれたからだ。
吐き出されたヘドロのような存在を同じ次元に引き上げたのは百合子だ。

寄生虫のように内側を食い荒らしても、その方が楽になる、と受け入れた。
もっとましな人間だったらこんなに苦労させないのに、と謝った。

だから、俺は死に物狂いで階段を上った。
女の不興をかわないようにそっとドアを開けた。

そして失敗した。

ドアの隙間にするりと滑り込んでドアを閉めた。
一歩後ずさった途端、とっくに部屋に上がっていると思った女に体ごとぶつかり、

俺は、そのことを十年先まで後悔するだろうと思った。
721 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(東京都)[saga]:2011/07/30(土) 16:06:22.85 ID:OqmhV86Xo

「いたっ?」

白いエナメルと金具の華奢なピンヒールを脱ごうと前かがみになっていたからだ。

女はぐらりとバランスを崩し、とっさに俺の肩のあたりを掴み、
2人して玄関のたたきに、もつれ合うようにして倒れ込んだ。

俺は段差のヘリに頬骨をいやというほどぶつけ、そこを押さえてうずくまった。

「いやだ……爪が……」

「あ……?」

左手の爪を悲痛な顔で眺めていた女が、こちらにぎっと睨んだ。
まるで親の仇でも見るような視線だった。

どうして俺は上手くできないのだろう。

どうして百合子がこんな目に合わなければならないのだろう。

俺が悪いわけじゃない。

知っている。何がいけなかったのか。
昔、俺が初めて生まれた時に――

「服を脱ぎなさい」

「え……」

「高かったのよ」

女は冷たく言い捨てた。

怒鳴り散らされる前に、俺は靴を脱ぎ、丁寧に揃え、服を脱いだ。
苦戦したが、きちんと畳み、部屋のあまり汚れていないあたりにそっと置いた。

「あの……お、ぼくの、シャツは」

アンダーシャツとして着ていた丈の長いハイネックのシャツを脱げずにいる。
女はゴミ箱を顎で指示した。

まさか。

ゴミ箱の中には、俺が今朝まで着ていた薄汚れた大人の男性用Tシャツがあった。
摘まみ出すと、上から捨てたらしい排水溝に絡んだ長い髪がべとりと付着していた。
722 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(東京都)[saga]:2011/07/30(土) 16:06:49.46 ID:OqmhV86Xo

ぞっとした。

女の物だと思うと、吐き気を催した。
こんなものに袖を通したくない。

何故か判らないが、せっかく清潔になっているのに。
ああ、百合子なら気にしない。なんでもハイハイと言うことを聞いただろう。

俺は、百合子に比べて潔癖症の気があった。
この生活には大変なデメリットだ。

「早くしなさい」

選択肢はない。

俺は息を止めてヘドロのような髪を引きはがし、清潔な子供用のシャツを脱いで
着ざらして薄くなった、雑巾よりも汚らしい布に頭を突っ込んだ。

「ここへ来て」

グラグラと思考が揺れた。

いかにも、劣った存在だと示されているように思えた。

不衛生で、醜く、教養もなく、何にも秀でず、力は弱い。
じめじめとした石の下にぐじゃぐじゃと蠢く気味の悪い虫のような。

頬が張られた。

先ほど道で打たれたのと反対の頬がじりじり痛んだ。
思わず床に座りこむと、肩の辺りを蹴られる。
堅いヒールが二の腕の肉を引っ掻いた。

「お母さん爪が欠けちゃったわ。あんたのせいで」

「ご、めンなさっ、あ゛!」

脇腹に尖ったつま先がめり込む。
ひっ、と妙な声が出て、俺は横ざまに倒れ込んだ。

背中の左半分をごつごつと堅いものが蹴り、踏む。

「さっきも先生の前で恥をかかせるし、あんたは本当に、だめ。いけない子。だめな子!」

「ごェンなざっ、す、ひませ……ぎゥっ!?」

腰のあたりに煙草をおしつけた火傷は一昨日つけられたばかりなのに、
まだじくじく疼くそこにピンヒールがもろにぶつかった。
723 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(東京都)[saga]:2011/07/30(土) 16:07:15.90 ID:OqmhV86Xo

「か、ふ……!」

「煩いわよ! お隣さんに迷惑じゃない! お母さんが怒られるのよ!」

「ごめ、な……ぶッ!?」

顎を蹴られる。
視界がブレて、二重に見えた。

「お母さんが怒られてもいいのねっ? お母さんが痛くてもいいのねっ? どうなの!」

「よくな、よくない……よくないです……」

一息ごとに背中を蹴られるので、満足に発声もできなかった。

がつ、がつ、としばらく肉を蹴る音が内側から響いて、

唐突にドアのチャイムが鳴る音がした。

「ひっ?」

母親の声が上ずり、俺の左肩甲骨の辺りを蹴っていた右足がずるりと滑った。

「ィ、あああああああァ――――‐っ!?」

「うるさいっ!」

びぃっと音がした。

母親は俺を掴みあげて、どこにそんな力があるのか分からないほどの渾身で
彼女が「部屋」と呼んでいる押入れの下段に俺を投げ込んだ。

ふすまを閉められた暗闇の中、俺は口元に手の平を押し当て、早くなる呼吸を押さえた。

は、は、は、という早い呼吸と、心臓がどくどく震える速度が一緒になる。
背中の左側が同じ速度で脈打った。

ドアの開く音が向こうで聞こえた。

「はい、どちらさまでしょう?」

あの女のあからさまな猫なで声だ。

「隣のもんですが……」

ぎゅっと瞑っていた眼を開け、少し顔を上げる。
少し隙間から光が入るだけで、目を閉じているのと変わらない。

それでも声の主は分かった。
今朝何か飲み物と食べ物をくれた、隣の男だった。
724 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(東京都)[saga]:2011/07/30(土) 16:07:42.77 ID:OqmhV86Xo

助けてくれ、と叫びたかった。
体中が痛い。

しかし、今少しでも音を立てたら、さっきの3倍ひどい目に合うことは分かりきっている。

気を抜いたら漏れそうになる悲鳴を押さえ、がちがちと震えるのを必死に宥めた。

「何だか子どもの泣き声みたいなのが聞こえたんで……あー、何か、あったか、と」

「あら! それは……多分テレビじゃないでしょうか?」

「テレビ」

男が部屋の中にあるブラウン管の真っ黒いままの画面を眺めているのが分かった。

「それか、ああ、私が子どもを叱っていたのがそっちまで聞こえてしまったのかしら」

「ああ、お子さん……」

「あの子、すぐいたずらをするんです。
 さっきも私を押して転ばせて、ほら、爪が……大したことではないのですが」

少しの間どちらも黙っていた。
俺も必死で口元を押さえた。息苦しかった。

「ああ、いたずらを」

「ええ!」

「まあ、その、それじゃ」

いかないで!

じわりと涙がにじんだ。

「すみません、以後気をつけますので……」

「ああ、あの」

「はい?」

「足を怪我してますよ」

「え?」

そんなわけがなかった。
俺はぐっとシャツを引き絞る。
725 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(東京都)[saga]:2011/07/30(土) 16:08:13.03 ID:OqmhV86Xo

「ほら、サンダルに血が付いて。金具のところ……」

「あら、いやだわ、本当! ありがとうございます」

ドアが閉じる音がした。

左の背中の辺りをきつく握り締めていた右手に、何か生ぬるいものがべとついた。

一晩。
俺はそのまま押入れの中で息を殺し続けた。

背中からはじわじわと何かがしみだしていた。
ひょっとするとそれは血液かもしれないが、暗い所では見えなかったし、
むしろ俺はそれについて何も考えないようにしていた。

女は風呂場でぶつぶつ文句を言いながら靴を洗い、テレビを眺めて
風呂にのんびりと浸かった後で早々眠った。

布団を出す時に押入れを開け、俺は寝巻姿の女の脚を見た。

押入れの上の段から布団を一組出した後で、まるで俺のいる下段には
衣装ケースしかなかったかのように、何事も無くふすまを閉ざした。

汚いシャツをたくしあげて、ぐっと傷口に押しあてながら、
俺はほとんど死体のようにじっと動かなかった。

大丈夫だ。
すぐに治る。
痛くないし、なにもおかしくない。

そう自分に言い聞かせた。

指先がかじかんで、だんだん眠くなってきても、俺はそれしか考えなかった。

いつのまにか、黴臭い板に囲まれた押し入れは溶けるように消え去り、
俺はいつもすごしている小さな部屋に戻っていた。

部屋の反対側で、何も知らないまま幸せそうに眠っている百合子の影が見えた。
胎児のように丸くなり、両腕を頭の下に敷いて眠っていた。

部屋の薄い壁の向こうで、やたらと沢山の人物がざわざわ話し合うような声が聞こえた。

俺はそれを無理に黙らせて、次第に冷たくなっていく痛みの中、ただ孤独に待ち続けた。

誰かに押しつけるくらいなら、自分だけが痛めつけられるほうがずっとましだった。

そこからしばらく、記憶が無い。 
735 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(東京都)[saga]:2011/08/04(木) 11:49:38.53 ID:QZAKgx7Ro

「百合子、いつまで寝てるの?」

がた、とふすまを開けると、忌々しく醜い肢体を丸めた子どもが横たわっている。

女は顔をしかめて、押入れの上段に畳んだ布団を突きこんだ。

「……百合子?」

いつもなら、はい、と返事をする。
居住まいを正したり、おずおず出てきたりするはずだった。

やっぱり、この子は頭がゆるい。

そう、女は考える。

何の反応も返さずに寝転がっている姿は、暗がりに隠れて足元しか見えなかった。
ちり、と苛立ちが背骨の端を焼く。

聞こえない訳はない。無視しているんだ。

そう思うと、ひどい扱いをされている気分になった。

この子は、私にそんな態度を取っちゃいけないんだ。
もっと大切に、大事に愛して敬って、ずっと――

「百合子! ちょっと、私がきいてるでしょ? お返事は?」

細い足首を掴んで、ずるりと畳の上に引きだした。

「……」

それでも、小さな体は何も反応しなかった。

掌の中に握りこんだ足首はひんやりと冷たく、いつもに増して全身は白かった。
血の気の失せた顔が、ゆるゆるとこちらを向いた。

虚ろな瞳がかさかさと瞬きする。
唇が、少しだけ動いた。

「……」

小さな子どもにしては骨ばった右手の指が、握りしめていたシャツを外れる。
板張りの押入れの床に落ちて、ごとりと音を立てて。

ようやく女は息をついた。

「なに、何よ、それ……」

汚らしい雑巾じみたシャツの半身は、赤黒い血液で染まっていた。
736 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(東京都)[saga]:2011/08/04(木) 11:50:29.13 ID:QZAKgx7Ro





                -8 しかたない 看守編




737 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(東京都)[saga]:2011/08/04(木) 11:50:56.37 ID:QZAKgx7Ro

古びた診療所には1人の男の気配がしんしん満ちていた。

鼻歌混じりの機嫌のいい歌声が奥のキッチンから漏れる。

現曲よりもさらにゆっくりと、聞き覚えのないような歌を口ずさんでいる。
あるいは、数年後のとある少女に聞けば憤慨するような、古びた聖歌だ。

しゅうしゅうとケトルの中で湯の沸く音。
ポットを温めていた湯を捨て、紅茶の葉を落とす。
そこに沸騰した湯を注いで、保温カバーをかけた。

「――……」

機嫌が良かった。

のんびりと盆の上にポットとカップを乗せる。

今日も男はカウンター前で、つまらない路地を眺めるつもりだった。
眺める価値すらないようなその場所に、誰か客が来るのを待っている。

だがそれは建前だ。

実際のところ、まだあと5カ月ほどは食べるのに困らない。
その間に何か仕事をすれば、もっと長く。

今は、ただその機嫌の良さに浸っていたかった。

「……また来ないかな」

組んだ両手の上に顎を乗せて、鼻歌の続きを歌いながら紅茶の抽出を待つ。

ぞっとするような乙女思考だ。
純粋に、それのためだけに彼は近年でもトップクラスの機嫌の良さを発揮している。

色の薄い、育ち切らない体躯を思い出す。

あのほやほやと頼りない笑顔や、スカートの下の薄青く陰になった太股の細さや。
おとがいから首にかけてのなめらかな曲線。体格に見合わない長めの細い指。
まるくカーブを描く髪は蜂蜜を溶かした紅茶のような、あまい色合いできらきら輝いて。

そろそろ良い具合な紅茶のために、少しだけポットを揺する。
飛び散らないように、しかし香り高くカップに注いだ。

だが、ポットを盆に戻そうとした途端、それはやってきた。

ひどく大きな衝突音の後、忙しない拳が何度もガラス戸を叩く。

「え……ッつ!」

慌てて眼をやった拍子にポットから零れた淹れたての紅茶が指にかかった。
何てことだ。

舌打ち交じりにガラス戸の外にいる忌々しい来客を睨みつけた。

昨日やってきたばかりの、あの大嫌いな女がそこに居た。
738 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(東京都)[saga]:2011/08/04(木) 11:51:22.48 ID:QZAKgx7Ro

髪を振り乱して必死にガラス戸を叩く女は1人だった。

外が明るく、診療所内が暗いために、外からでは中の様子がほとんど分からないのだ。
女は近くにいる男に気付きもせずに内側を覗き込み、戸を叩いていた。

その背後で女が乗ってきたらしいタクシーが戻っていくのがちらりと見える。

何故気付かなかったのだろう。

呆然としていた男も、ようやく腰を上げる。
火傷した指先を濡れたタオルできっちり冷やしてから、せめてもの嫌がらせにと、
たっぷりの時間をかけてガラス戸を開けてやった。

「おはようございます。どうしたんでしょうか、こんなに早くに……」

わざとのんびりと声をかけてやる。

「ああ、良かった、いらして……私、もう、あの……分からないんです。こんな……」

いらいらと、トーンの高い声で喚く女は大分取り乱した様子だった。

「落ちついてください。何かあったのですか? 今日は……」

そこで、白衣の男はぴたりと言葉を切った。

「……ご旅行ですか?」

「え? ああ、これは」

女ががらがらと引いてきたのは、使い古しのスーツケースだった。

真っ黒い外面には傷がつき、優に三週間分は詰め込めそうに大きな
荷物を転がすキャスターがきゃらきゃらと不愉快な音を立てていた。

「ここまで来るのも大変だったんです、あの、私……もう、重くて。
 でも、他にどうしたらいいのか……だってあの子……あんなですもの」

「何があったんです……?」

「あの……」

女はそのケースを乱暴に横倒すと、ガタガタやかましい音を立てながらこじ開け始めた。

バックルをぱちり、ぱちり、と開きながら、女は幾分落ちついたような、
心底疲れたような口調で続けた。

「本当に、すごく重かったんです。いやになるわ。まったく……」

ざわざわと男の胸に興奮が押し寄せる。

あっけなく開かれたスーツケースの中には、黒いゴミ袋が入っていた。
辺りに生臭さが立ち込める。

ゴミ袋の口から、つい昨日見かけたのと同じ紅茶を透かしたような髪が零れていた。
739 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(東京都)[saga]:2011/08/04(木) 11:52:24.21 ID:QZAKgx7Ro

「そ、……っ!」

男は慌ててそのゴミ袋を抱え上げた。

ずっくり重いゴミ袋をはぎ取ると、実に汚らしいシャツとそれだけ新品の下着だけの
昨日別れたばかりのあの子どもに寸分も間違いなかった。

抱き上げた体が腕のなかで、ぬる、と滑る。

「う、」

赤黒く染まった雑巾越しに、男の仕立ての良いシャツにも赤い斑点が染みついた。
慌てて腕を引き、ケースの中に横たわらせる。

冷や汗で額に細い髪が張り付き、ひどい顔色だった。
呼吸は浅く、全身は冷たい。

「ああ、本当にくたびれたわ。なんてことなのかしら、困ってるんです、私……」

「何をしたんです!? 僕の……っ、患者に!」

舌の先まで一瞬漏れかけた単語を、男はぎりぎり飲み下した。

女はねぎらいや慰めの言葉がなかったことに少々むっとした様子を見せた。

この女は、頭がおかしいのだろうか。
何故自分の子どもを荷物のように運べるのだろうか。

「この血は?」

「さぁ、気持ちが悪いから良く見てないのですけど、多分これです」

そう言って女がスーツケースの底から取り出したのは、白革のミュールだ。
ベルト風のストラップを金のバックルが留める華やかなデザイン。

記憶が正しければ、昨日この女が履いていたものだろう。

「この、金具で切ったんです。多分」

女が指差したのは、金メッキのバックルのピンだった。

「こんなもので?」

「玄関で転んで、どこか切ったようなんです」

「……転んで?」

「ええ」

女はにこりと笑った。
740 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(東京都)[saga]:2011/08/04(木) 11:52:50.63 ID:QZAKgx7Ro

「……とにかく、奥に運びますから」

男は、少年をくるんでいた黒のゴミ袋ごと、そっと抱え上げた。

小柄とはいえ、ずしりと重い体躯だ。
日頃運動不足の男の腕が、筋肉がみしぴきと引きつった。

診察室の奥にある簡易ベッドに横たえて、
男ははさみで雑巾以下のシャツを躊躇いなく裂いていく。

「これは……」

くふくふと浅すぎる息を漏らす少年の骨ばった背に、一対肩甲骨が飛び出していた。
そして、左肩甲骨の下から左脇腹にかけて、赤のクレヨンで引いた線が横切っている。

実際はあまり切れないナイフで布でも裂いたような、世辞にも綺麗と言えない切り傷だ。
血にまみれた周囲の皮膚を消毒液を染みさせた綿球で拭うと、固まった血液で
くっ付きかけていた怪我がパクリと赤い口を開いた。

ひどく性的だ。

男はそう思う。

手の中の華奢なミュールを寄せてみる。
確かにそのピンが太さや傷の深さにぴたりと合っていた。

そして、男はちらりと露わになった肌に目を滑らせた。

右大腿に蹴ったような大きな痣。
治りかけた擦り傷のかさぶたが左肩に。
首の付け根にはまるで首輪のように赤黒い痣が輪になっている。

両足の甲には完治したもの。脚や腕の内側の柔らかい皮膚や、浮いた腰骨の上には
まだ付けたばかりの煙草の跡がいくつも散らしてある。

「その子不注意で、良く怪我をするんです」

「……そうですか」

血のにじむ傷口に仮でガーゼを当てながら、男はその見え透いた嘘に歯噛みした。

「この怪我は今朝?」

「さぁ、昨日の夕方だったと思うんですけど」

「時間がわからないのですか」

いらいらと男は続ける。

先ほどはさみで裂いたシャツの汚さに辟易する。
それを血まみれのゴミ袋に包んで医療用ゴミのボックスに落とした。
741 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(東京都)[saga]:2011/08/04(木) 11:53:17.19 ID:QZAKgx7Ro

「多分夕方です」

「何故もっと早く医者に見せなかったのですか。真皮まで切れていますよ。
 細い血管がズタズタになって、戻らないんです」

そこまで言って、男は口をつぐんだ。

そもそもこの子どもは日頃食べ物をきちんと摂取しているのだろうか。
元から貧血気味だったとしたら……

「とにかく、傷を洗って縫合します。待合室でお待ちください」

この子どもを一生懸命運んできたというのに一言のねぎらいも無い。
それに腹を立てた様子の女は、返事もせずにぷいと行ってしまった。
20かそこらの娘でもないのに、ひどく幼稚な行動に見えた。

「これは洗浄しないと膿むな……」

部分麻酔の準備を始める。
奥の部屋に少年を運んで、念入りに手を洗って戻ってくると、台の上の生き物が
ほんの少しだけ、そっと瞼を開いているのが分かった。

「百合子くん……」

「……れ?」

掠れたような小さな声だった。

誰、と。

「先生だよ。僕だよ。可哀そうに……」

そっと薄い色の髪を撫でた。

母親のいるときは堅く閉じられていた瞳が彼を見上げる。
虚ろな視線がゆるゆるなぞる。

「さむ、ィ……」

震える小さな手を大きな白い手がぎゅうっと握りこむ。
熱を分けてやれば、向こうも弱弱しく温かい掌にすがった。

「大丈夫。僕が治してあげる。心配ないよ」

「……た、すけて……」

「あぁ……いいこだね」

自分の冷たくなった頬に触れて過ぎて行った暖かいものに、
朦朧とした子どもは気がつかないだろう。

もう一度手をくまなく洗いながら、男は晴れ晴れと笑顔を浮かべた。

「いいこだな……」

そして、昔から望んでいた最も不幸な思いつきをこの子どもに実行しようと心に決めた。
742 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(東京都)[saga]:2011/08/04(木) 11:54:34.14 ID:QZAKgx7Ro

麻酔の針に悲鳴を上げさせて、消毒液を溺れるほど振りかけて傷を洗った。
丁寧に丁寧に、肉に針をぷちぷち通して、よく縫合してやった。

健康的な生活を送りさえすれば、ほとんど目立たない傷になるだろう。
とろとろ眠りだした髪を撫でて、そっと整えてやる。

点滴をセットして、病衣をかるく着せかけた小さな体をベッドにうつしてやってから、
男は計画をはじめることにした。

待合室で暇そうに爪を眺めていた女を診察室に通して、
ティーバッグの熱い紅茶を淹れてやり、馬鹿にもわかるように何度も説明をした。

「ですから、経過を見るためにも百合子くんを入院させましょう」

「でも……」

「どうせ抜糸までの10日です。それに、傷が不衛生だったこともあります。
 化膿しないか心配なんですよ。体力もあまりないようですしね」

くっと女が言葉に詰まった。

ことさらに優しげな声を出しながら、男は宥めるように女にねだる。

「僕が経過を見ますから、その点はご安心いただけると思いますが。
 それに、今ここから動かすのは大変ですよ? またケースで運ぶわけにも、ほら……」

ぐずぐず迷っている女に内心毒づきながらも、笑顔は優しげに。

「あの、」

「はい?」

「入院費を出せないんです」

男は成功を確信した。

「これから長くお付き合いさせていただきますし、ええ、検査入院ということで、
 先日いただいた代金にすでに含まれている分だけで結構ですよ」

「……でしたら、お願いいたします」

数か月ぶりに心から笑顔を浮かべた。

「はい、お預かりいたします」

女が軽いケースを引き摺って帰った後で、男は診療所のドアを施錠した。
インターホンは内線につながるように設定してある。

ケトルにたっぷり湯を沸かす。一番好きなセット。一番いい葉。
きちんと淹れた紅茶を持って、客間を改装しただけの薄暗い病室へと急いだ。

そうして青い顔で眠っている少年が起きるまで、じっと枕元で紅茶を飲んで待っていた。

本も読まず。音楽も聞かず。
ただ嬉しそうに、笑顔で寝顔を眺めていた。

10日間の計画が彼の中でゆっくりと練られていった。 
799 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(東京都)[sage saga]:2011/09/19(月) 00:05:44.47 ID:MXZUyhuLo

ふと、どこかでドアチャイムの鳴るのが聞こえた。
まぶたを持ち上げることでようやく、男は自分が眠っていたことに気づく。

白く波打つシーツが、真っ先に視界に飛び込んできた。

重い頭を持ち上げる。ベッドに突っ伏していたせいで全身が軋んだ。
首を曲げるときにぴりっとした痛みが走り、小さく声を立ててしまう。

「う……」

若く見られるが、実際はもう30より40の方が近くなりつつある歳だ。無理が堪えていた。

「ン、」

それに答えるように、細い吐息が聞こえる。

はっとして口元を押さえ、男は様子うかがった。

大丈夫、まだ、眠っている。

点滴の痕が内出血していないことを確認して、男は横にどけておいた椅子に腰掛ける。

つるつると蝋でもひいたように黒く光る床に、埃がつもる音まで聞こえてきそうだった。

しかし、その静寂を破るように、再びドアチャイムの音が鳴る。
男は舌打ちまじりにサイドボードに置いた旧型の電話の受話器を取る。
院の正面玄関にあるインターホンからの内線だった。

起きてしまったらどうするんだ。

怒りを深呼吸一つでなだめて、男は感じのいい声を出してみせる。

「はい? どちらさまですか?」

「木原先生ぇ!」

途端にどこかで聞き覚えのあるだみ声が大音響で鼓膜を突いた。

眉間に皺が刻み込まれる。

「……ええと?」

「いつもお世話になっております、早朝にすいません」

ちっともすまないと思っていない声だ。
800 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(東京都)[saga]:2011/09/19(月) 00:07:46.39 ID:MXZUyhuLo

来客はよくこの医院を利用している「有限会社」の名前を出した。
いわゆる裏の稼業の顧客だった。

それにしても、と男はため息をつく。

彼らは病院をコンビニエンスストアと勘違いしている節がある。

自分たちが怪我や病気で苦しんでいる時にはいつでも、
医者は快く治療をしてくれるものだと思っているのだ。そうとしか思えない。

そもそも医者が夜眠るものだと知らないのかもしれない。
電話のディスプレイに表示されている時刻は、午前4時をほんの少し回ったところだ。

教養のない人間は嫌いだ。

そう思いながらも、男は愛想のいい声を出した。

「どうされました? この間の処女膜再建手術に、何か問題でも?」

そんな訳がない。

彼がその手術を施したのはまだローティーンの4人だった。
行き先は推して知るべしと言うところだ。
もう彼らの手元にはいないだろう。

「違います、社長が病気で!」

「社長が?」

というと、あの腎不全で透析通いをしていた男だろうか。
病気など、元からだろう。

男はこめかみを押さえてうつむいた。
手持ちぶさたにコードをいじっていた指で、目の前の茶色の髪をそっとなでる。

「どういう症状です?」

「それが、」

今日だけは、ずっと一緒にいようと思ったのに。

「……わかりました。すぐ行きます」

長いまつ毛の目尻に溜まっていた涙を吸い上げてやると、少しだけ元気が出た。
801 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(東京都)[saga]:2011/09/19(月) 00:08:28.17 ID:MXZUyhuLo





                -8 しかたない 偏愛編




802 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(東京都)[saga]:2011/09/19(月) 00:09:15.65 ID:MXZUyhuLo

                          どろどろとした黒いものが部屋にたまっている。

                           よく来る場所だ。いつもはもっと清潔なのに。

                                   正方形な部屋。一辺は鉄格子。
               その向こうに何人かの人々がそわそわと動いている気配がする。

                        褪せた水色のタイル床の中央には排水溝がある。
              そこがごぼごぼと詰まって、赤黒い水をぼこぼこと吹き上げていた。
                                     このままでは、部屋が沈む。

                         壁に背中を預けて座ったままで視線を巡らした。

                     向かいの壁際に、まったく同じ背格好の子どもが居る。

                                             顔が見えない。

                                             「百合子……」

                               あの正体のない透明人間の声がした。

                                         「ごめン、な、俺……」

                                    声がだんだん遠くなっていく。

                                            「え、、、はッ、」

                                タイル貼りの床がばらばらと抜ける。


一瞬の浮遊感の後で、体はバチンという音と共に叩きつけられた。

「あ゙ゥ、」

真っ白い布。
古びた病室のベッドの上に、鈴科百合子は横たえられていた。

ここ、どこ、かな
あのおうちじゃ、ないかな

寝返りを打とうとして、左背中の皮膚が妙にひきつっているのに気づく。
そっとさわってみる。感覚がなかった。
803 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(東京都)[saga]:2011/09/19(月) 00:09:57.08 ID:MXZUyhuLo

「ン、あ、、、あー、」

声を出そうとして、喉がかさかさに乾いていることに気づく。
頭が、体中が重い。

やだ、なンで、こンな、どこ、だれ、やだ

くるくると思考が独楽のように回転する。
展開することのない、堂々巡りの思考だ。

ふと、左肘の内側にテープで留めつけられたチューブを見つけた。
天井近くにつり下げ垂れた透明な袋から、雫がぽとぽとと落ちている。
それが、ずるずると体の中に入ってきているらしかった。

ぞっとすうような恐怖が指を動かした。
やわやわと腕から延びる点滴チューブを握り、引きちぎろうとしたちょうどその時。

意識すらしていなかった古い木のドアが重たげに開き、
白く長い服を着た人物が顔をのぞかせた。

「ああ、ダメだよ、それは。取っちゃダメ」

歩み寄って、チューブを握ったままの手に触れてくる。
ひぃ、と悲鳴がこぼれた。

「ご、め、ンなさ、ッごめンなさいっ、これ、」

「うん、おいで」

緊張のあまりガチガチと硬直する体を、その男は自分の膝に乗せた。

「ひ、」

「疲れた……」

「あっ、あ、あゥ、、、」

正体の知れない恐怖のために、百合子の全身ががたがた震え出す。

「どうしたの? 寒い?」

「や、やだ、やだ、ごめンなさ」

「泣かないでいいんだよ……ごめんね。びっくりしたね」

過呼吸気味にしゃくりあげる喉を猫にするように指先でくすぐってから、
男は白衣を脱ぎ、目の前の小さな少年の肩に着せかけた。
804 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(東京都)[saga]:2011/09/19(月) 00:10:59.08 ID:MXZUyhuLo

「今、毛布洗ってるんだ。あんまりいい匂いじゃなかったから。干したら持ってきてあげる」

感覚のない左わき腹や、チューブの刺さった腕に触れないように、
男はそっと白衣の上から抱きしめ、髪を梳く。

「う、ぼく、なンで、あの、」

「ん? ここは病院だよ。怪我したから、ここにお泊まりするんだ」

「びょういン」

「そう」

おそるおそる顔を見上げると、そっと微笑まれる。

「せ、ンせい」

「あ……覚えていてくれたんだね?」

ぎゅうと苦しいほど抱きしめる腕の中から、少しの鉄錆と消毒液の臭いが鼻をついた。

「嬉しいなぁ。ありがとう」

「はあ、」

長々とため息をついて、男はぼすんとベッドに倒れ込んだ。
やんわりした振動。

「あのね、お手伝い頼んでいいかな?」

髪を撫でながら疲れたように言う男に、ぱちりと色の薄いまつげが瞬いた。

「おてつ、」

丸めた手が、小さな耳を掬うように持ち上げる。

「そう。あのね」

注ぎ込まれる内容に、こくり、こくりと頷いて、鈴科百合子はへら、と笑みを浮かべた。

「できる?」

「ン、あ、、、はい」
805 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(東京都)[saga]:2011/09/19(月) 00:11:25.59 ID:MXZUyhuLo

白衣に包まった少年の耳に遠くの方から車の音が聞こえたのは、数時間も後だった。

あの狭いアパートにいた時は、そんなものはひっきりなしだったのに。
すぐそばを走る線路。踏切。やかましい原付の走行音に、換気扇や、パチンコ店の音。

その音の正体を、少年は知らない。
ただ、音がしていることだけは知っていた。

車の音が聞こえた後で、ドアチャイムの音がした。
少年はその音の正体は知らない。しかし、どうすればいいのかは知っている。

「お手伝い」だった。

震える指をそっとベッドの隅に置かれた電話機に伸ばす。
膝の上に乗せられた男の頭を揺らさないように、起こさないように、そっと。

「ゥ、」

かちゃ、と白い受話器を持ち上げると、やかましいドアチャイムはぴたりとおさまった。
そっと、それを耳に当てる。

つるりとしたプラスチックは少し重くて、冷たかった。

「は、い、、、どちらさまですか、」

きちんと言えているかどうか自信がなかった。
向こうで人のたじろぐ気配。

「あ……えぇと、」

男性だ。
年齢は百合子の母親と同じくらいかと思われるが、彼にはそこまで分からなかった。

相手が子どもだというのに合わせてか、感じのいい声が続けた。

「木原先生の個人医院であっているかな?」

「う、あ、あの、きょ、、、」

「あー……先生は?いる?」

男の声がまた一段階優しくなった。
震えながら、少年は唇を開く。

「い、ます、、、けれど、でも、」

「え?」
806 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(東京都)[saga]:2011/09/19(月) 00:11:51.86 ID:MXZUyhuLo

乾いた唇を舐めて、百合子は受話器をしっかり握った。

「あの、の、、、せンせいは、つかれてる、ので、きょ、は、おしごと、、、できませン」

「……えーっと、おやすみなのかい?」

「は、は、、、、ァいっ」

声が上ずる。

チラリと下を見れば、膝の上にやや長めの髪を散らして、その「先生」は眠っていた。
ゆったりとした呼吸音が聞こえる。
時折、腰に回した腕がびくりと震える。

「う、、、ごめンなさ、、、」

「ああ、いいんだよ! あ、いや、ちょっと待ってね」

「、」

インターホンから少しだけ声が遠くなる。
向こうに誰かがいて、何か相談しているようだった。

「どうしようか、母さん」

「あらあら、せっかく来たのにお休みだったなんて……」

「しかし、今日でないとまたしばらくチャンスがないな」

夫婦らしいその会話に、少しとがった子どもの声が混じった。

「なー、もういいって! 病院とか、俺、別に病気じゃないじゃん!」

男の子?

百合子は受話器に耳をピタリとくっつけた。

「だけどなぁ。腕が良いお医者さんらしいし、見てもらったら何か変わるかもしれないぞ?
 父さん会社の人に無理言って紹介してもらったんだが」

「いーって言ったらいーんですっ!! そもそも、何だよっ、久しぶりに帰ってきたら病院って!
 それでも親かッ! 普通、家族だんらんとかそういう痒い感じじゃないんですかっての!?」
807 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(東京都)[saga]:2011/09/19(月) 00:12:18.21 ID:MXZUyhuLo

ざざ、と些細なブレスが入った。

「よっ!」

「ン、え、、、」

受話器から男の子の声が聞こえた。

自分に話しかけているんだろうか?

「お前ここんちの子なの?」

「ち、ちが、ちがゥ、よ、」

声がきりきりと上ずった。

「入院してんのか?」

「、、、わかンな、あ、、、ごめンな、さ、」

「ふーん。あ……えっと、そのー……元気出せよ! あ、ここに、のど飴おいとくからっ!」

「え、、、なに、」

後ろから、両親が子どもを呼ぶ声がする。

「おーい、もう行くぞ当麻」

「当麻さーん!」

受話器を握る手が、汗で滑る。

「あ……じゃあ、またな!」

「あ、あ、あ、、、ぼく、」

「ん?」

「ゆりこ、、、」

「お、おお! またな! そのー……ゆ、ゆりこ?」

「、、、う、ンっ、とーま」

ずるりと手の中の受話器が滑った。

「あ、」

ねろりとした声が耳を這った。

「お手伝いしてくれてたんだ? ありがとう。偉い子だね」

「せンせ、」
808 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(東京都)[saga]:2011/09/19(月) 00:12:44.73 ID:MXZUyhuLo

がじゃり。
受話器が戻される。

「せンせ、ェ」

「うん?」

何事か理解することもできていなかった。
ただされるがままに首筋を舐められながら、少年はのろりと振り返る。

「あの、げンかン、に、、、」

「玄関?」

「なにか、くれた、から、、、とりに、いきたい、、、です、、、」

「お届けもの? あ、だめだ。今日は安静だよ。待ってて」

ぎぃ、とドアが軋んだ。

ずり落ちた病衣の肩を直し、掛けられた重い白衣を引き上げる。

どうせ戻ってきたらまたはぎ取られるのだろうというのは、なんとはなしに理解していた。
脇腹にこびりついていた粘液が腹を横断して伝い落ちる。それを服の裾でぐしぐし拭う。

何か、ここに居てはいけない気がした。

「先生」は優しかった。
今まで、経験したことのない優しさだった。

彼の頭を撫で、優しく抱きしめて、いい子だ、偉い子だ、と口にしてくれた。

それでも、どこか本能的な部分が警鐘を鳴らしていた。

それは、彼の中に長年かけてゆっくりと育てられた、暴力の気配を感じる器官だ。
体の中に埋まりこんでいるその器官はちりちり警鐘を鳴らす。皮膚を逆立てる。

しかし、それでもいい。

「愛して」くれるなら。

ぱたぱたと足音が戻ってきた。

「お待たせ。これ?」

「あ、、、」

ぽい、と飴玉が放られる。

キャッチすることもできずに、それを額で受け止めながら、少年は先ほどの声を思い出す。
809 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(東京都)[saga]:2011/09/19(月) 00:13:18.59 ID:MXZUyhuLo

「飴なんかもらったの?」

「う、うンっ、、、」

恐る恐る見上げると、男がくすりと肩をすくめて見せた。

「とらないよ。食べなさい」

「あ、、、」

包み紙と悪戦苦闘していると、男はそれをそっとやめさせ、包みを剥いだ。

「うわぁ、人工甘味料の味だ……ひどいな!」

「あ、あ、あ、、、」

口元で飴玉をぱくりと含まれたことに抗議しようと口を開く。

「おいで……」

後頭部を大きな掌が包み込む。
髪を撫でる。耳をつまむ。

「ン、く、、、っ、」

ぬるりと侵入を許す。
溶けだした甘味料で甘く染まった唾液を大人しく飲み下す。

「う、ェ、」

「ああ……ごめん。絶対安静だったね」

すいと身を引かれて、ぼんやりと唾液を一筋零した。
ばれて、汚したと叱られる前に、それを袖口で拭う。

何がしたいのだろうか、この人は。

僕は、食べ物じゃない。

教育不足の脳がとろとろと無駄な思考を繰り返す。

「あまい、」

「うん、そうだねぇ」

「すっぱい、、、」

「酸味料の味だよ」

ころりと口の中で転がした飴玉は、何の因果か、レモンの味だった。 
838 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(東京都)[saga]:2011/10/04(火) 16:52:48.14 ID:XOfpCezRo

>>1です。

>>837
分かりにくくてすみません。
木原姓は先生だけです。

先生=木原虚空
お母さんは名前出しません。

台詞の前に名前が無いと分かりにくいですね。
ご面倒おかけしております。



【注意】
今回はけっこうあれです。
対象年齢が、とは言いませんが、エロ、グロ、猟奇、異常性癖が強い回になります。

苦手な方は飛ばしてください。
「飛ばしても次回以降話が分からなくなるということは、多分ありません。」
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
「あ、ダメだな!」と思ったら静かに飛ばしてください。

直接描写は控えましたが、一応ご参考までに。
このSSは虐待や児童への性接触を支援するSSではありません。 
839 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(東京都)[saga]:2011/10/04(火) 16:53:16.02 ID:XOfpCezRo

小児性愛。

いわゆる、ペドフィリアは精神病だ。

日常語として用る「変態衝動」では、主に思春期未満の女児への性欲を指す。
もやもやとした概念は、つまり要約すればこういうことになる。
「ロリータ・コンプレックスをさらにこじらせ低年齢化させた性癖」。これは常用の場合だ。

精神医学で小児性愛という診断を下すためには、更に細かではっきりとした分類がある。

まず、一つ目に。
13歳以下の子どもにわいせつな接触をしたい。実際に行う。
またはその妄想をして著しい性的興奮を催す状態が半年以上も長く続いている。

二つ目。

実際に、13歳以下の子どもへのわいせつ行為を行う。
もしくは、そうしたいという衝動、空想のために、子どもに会うこと恐れたり、
誰かにその空想を見抜かれることに怯えて対人恐怖を起こす状態。

三つ目。

少なくとも、その人物が16歳以上で、性的な興味を持つ対象より5歳以上年上であること。

そして、この基準は成年との性的接触に関連しない。
要するに「大人も好きだからペドフィリアではない」といういいわけが通用しないのだ。

「下は何歳から、上は何歳まで」のストライクゾーンが13歳以下に適応されてしまうなら
それがペドフィリアという精神病である。

だから、ペドフィリアは「ロリータ・コンプレックス」を単に幼年化させただけではない。
対象となる子どもの性別も確定しないのである。

ペドフィリア嗜好者、ペドフィルは、女児のみでも、男児のみでも、その両方を対象としても。
等しく、「ペドフィリア」として扱われ、本人の性別にかかわりなく病名としてこれを記される。

もちろん、想像するべくもないことだが、
女性のペドフィルよりも男性のペドフィルの方が絶対数を多くしている。

また、このうち最も多いのが
「本人が男性で、13歳以下の男女両方に性的な衝動を覚える」タイプだ。

木原虚空も、これに該当する。

そう、彼もまた著しい「精神疾患」を抱えている。
840 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(東京都)[saga]:2011/10/04(火) 16:53:58.23 ID:XOfpCezRo





                -8 しかたない 原罪編




841 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(東京都)[saga]:2011/10/04(火) 16:54:48.25 ID:XOfpCezRo

木原虚空がペドフィリアを自覚したのは随分昔のことだ。
それこそ覚えていない頃。むしろ、その頃は精神分類上の「小児性愛」ではなかった。

つまり、16歳未満だったのだ。

長いことそれは空想の域を出ないものだった。
子どもとの接触も、また健全な部類に収めていた。

髪を撫でる。
抱き上げる。
膝の上に乗せる。

長いことかけて性欲をにじませないように細心の注意を払った振る舞いだ。
かえって丁寧なくらいで、周囲からの評価は損なわれなかった。

成績は優秀だった。
顔も醜くない。表情が柔らかい所為で、人からは好青年だとよく言われた。

「将来は教師になるんじゃないか」

今、知っている人が聞けば顔色を失くすようなことを、よく、言われた。

彼はそれをいつも通りのやんわりとした笑顔でいなした。

そして、ただ、ただ真摯に学習を続けた。

親類一同が次々に研究者を排する「木原」の一族の中で。
がむしゃらに医師という選択を選んだ。

彼が本当の意味で小児性愛という精神疾患を患ったのは、
研修の二文字がとれて医師として独り立ちした年だった。

わざわざ海外まで出向いて大学を飛び級した。22歳のことだった。

喘息で入院中の11歳の女児は死亡。
病院側は死因を隠ぺいし、木原虚空を解雇した。

女児の遺体は肋骨の半分が砕け、左脇腹に穿孔。内臓が複数破裂。
死因は直腸と膣粘膜からの大量出血と、外因性の肺気胸による呼吸困難だった。

彼はその時のことを全て覚えている。
行為を収めた記録媒体は擦り切れるほどに見返した。

腹部に穿孔して陰部を差し込んだときの異様な興奮と性感。
手術用の器具で肋骨を折り砕き、やわらかになった腹を撫でて、
血液が脈に沿って間欠泉のように湧きだす器官を擦りあげた。

それまでの22年間で一番幸福な3時間だった。
842 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(東京都)[saga]:2011/10/04(火) 16:55:14.27 ID:XOfpCezRo

彼も医師だ。

それが精神障害であることは自覚していた。

ただ、往々にして、悪い組み合わせというものが存在する。
小児性愛に加えて彼はナルシストの気があった。

つまり、自分の性癖を治療するなんて屈辱的なことはしたくない。
ばれなければいいじゃない、という利己心の塊。医者の不養生極まれり、というところだ。
ただし精神の不養生は彼自身によりも他人に牙を剥く分、悪辣だった。

なぜなら木原虚空がサディストだったからだ。
性癖としては誰もが知るサディズムというのもまた、性的倒錯を超えた病的なものになる。

加虐性愛。

よく耳にする、ソフトSMやら、性的なプレイとしてのものではない。
もっと純粋に、単純な暴力行為を加えることで性感を感じるタイプのものだ。

性行為に及ぶ時には、凶器を服数種類、そばに用意すること。

それは特に選ぶ訳でもない。

そこに椅子があればそれで頭部を殴りつければいいし、刃物があれば臀部の肉を抉った。
何もなければ首を締め上げて、舌骨を砕き、指で眼を抉る。

それが躊躇いなく行える。そういうタイプの人間だった。

病院を辞めさせられてからは、遠縁の老人が指揮をとる研究所に勤めた。

学園都市、という奇妙に殺伐とした街で、怪しげな研究を手伝うことは簡単だった。
いつもは医務室でぶらぶらと過ごし、実験のときには投薬や健診を手伝う。

実験体は子どもばかりだった。
超能力に関する研究をしているそうで、成熟した大人では実験体にできないらしかった。

彼にそういったマッドな研究は理解しがたかった。
が、子どもを被検体にすることが非常に使い勝手の良いことだというのは理解できた。

大人が被検体だと、被検体を育てるまでに20年を要するが、子どもなら半分以下だ。

短くて済めば、楽だ。
そう、研究所の老人は思っていた。

木原虚空にとっても、楽だった。

使いものにならなくなった被検体は「処分」してもいいことになっていた。
息絶え絶えで耳の穴から血液を滴らせるそれを、こっそりくすねることもできた。

十数年、そこに勤めた。
843 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(東京都)[saga]:2011/10/04(火) 16:55:44.39 ID:XOfpCezRo
途中何度か勤務する施設が変わったが、やることはさして変わらなかった。

セックスの回数が重なるにつれて、手にかけた子どもの数は増えていった。
終いには、実験にかける前の健常な児童すら犯し、殺した。

数は2ケタの後半にさしかかろうとしていた。

通常の殺人犯なら捕まった。
しかし、公然の秘密として人体実験を行う研究所の中だ。

気付く所員も見て見ぬふりをし、死体は施設内の焼却施設で焼かれる。

止める者もなかった。
遠縁の老人は、「仕方のない奴だな」と笑うばかりであった。
30を超えた時になって、ようやく別の研究機関に左遷された。

丁度10歳年下の、従弟の指揮する研究所だった。

「ご乱交ぶりは聞いてるけどよぉ、ここではもうちょい大人しくしてくれねーかな?」

そんなことをガシガシ髪を掻きながら言う従弟に、彼は眉をひそめた。

昔、彼が何度手を広げても膝に乗らなかったという難攻不落の少年は、
いつのまにか筋ばって育ちきった目つきの悪い青年になっていた。

日陰に籠りっぱなしの彼よりも背丈は掌一つ分高く、腕や胴周りも太く筋肉を付けていた。
生白い彼と違って、従弟はきちんと日に炙られた、人の肌らしい肌色だ。

「がっかりだ」

正直に言えば、この時彼は泣きだしてもおかしくないほどの落胆ぶりだった。

「何がだ」

「可愛くないにも程がある……」

「まさかテメェよぉ、俺が未だに、こーんなチミっこいガキだと思ってた訳じゃぁねーよな?」

従弟は自分の臍のあたりに手をかざした。

そう、昔彼と会ったときは、それくらいの背丈だったのだ。
無愛想で「不愉快だ」という表情をして見せるのがうまい、嫌な子どもだった。
が、子どもには違いなかった。

木原虚空にとってなによりも重要なのは、相手が自分より何もかも劣っていること。
人間として未熟な存在であることだった。

「そうだ、人間って生きてれば成長するんだよねぇ。数多くん、老いたなぁ」

「育ったと言え」
844 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(東京都)[saga]:2011/10/04(火) 16:56:11.02 ID:XOfpCezRo

従弟との交流は久しぶりに人間らしいものだった。

何も、大人が憎い訳ではない。
性欲の対象から外れるだけだ。

まともに人間らしい付き合いを、と思うならば、むしろ初めてとも言っていい程だった。

「数多くん、結婚しないの? 子ども作らないの?」

「作らねえよぉ。作ってもテメェには見せんわ」

「ケチ……ああ、僕もお嫁さんが欲しいな、そろそろ」

医務室の机に頬をぺっとりとくっつけながら言う彼は、そろそろ適齢期も過ぎていた。

「そーいう寝言ァ、16歳以上の女と寝てから言えよペドコン」

仮眠室代わりにベッドに転がった従弟はコーヒー党だと言って、
彼が何度紅茶を淹れても口すらつけず、見向きもせずに研究資料を漁っていた。

「子どもを孕ませるセックスはしたくないんだ」

子どもならば性別は問わない。だが大人とは性交したいとすら思わない。
やっかいなタイプだった。

「避妊しろ」

「月に一度血が流れてくるような穴に突っ込むなんて気が狂ってるよ。
 それに、胸が脂肪と乳腺で腫れてくるなんて……きもちわるいじゃない」

「バカ、それが良いんだろ!」

「えー。数多くんおっぱい好きなんだ……」

ガバリと身を起こした従弟は「信じがたい」という顔をしていた。
彼に言わせるなら従弟の方こそ正気の沙汰だ。

「……乳が嫌なら海外で同性婚でもしてこいっての。ペド卒業なら野郎でもマシだ」

「精液の臭い嫌いだから、精通した男の人はいやだなぁ」

「あぁそぉですか……我儘なオッサンとか存在価値ねえわ」

「ワガママっていうけど、うーん。数多くんは例えばさ、僕と結婚できるわけ?」

「しねえ。死んでもしねえ。俺が女でもしねえ。つーか死ね。苦しんで死ね。不愉快」

「でしょ。僕もやだよ。つまり僕は一生結婚できないってこと……」
845 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(東京都)[saga]:2011/10/04(火) 16:57:01.01 ID:XOfpCezRo

ため息をついた原因はそれだけではなかった。

端的に言えば、「溜まって」いたのだった。

初めてかもしれない友人に言われた「控えろ」の言葉通り、彼はこの研究所に来てから
一度もセックスをしていなかったし、つまり1人も殺していなかったのだ。

5カ月、耐えた。

それまで、少なくとも月に1度くらいは「愛していた」のだから、この禁欲生活は長かった。
ひとえに人間らしく口をきいてくれる従弟に嫌われたくないがためだった。

あれがいなければ、我慢する必要ないのに。

あれが「大人しく」とか「控えろ」なんて言わなければ。

例えば、ただのサディストならそんなことはしなかっただろう。
ただのナルシスとでも、ただの小児性愛者でも、そんな真似はしなかっただろう。

木原と名のつく家系に生まれた。
執着心が強く、頑固で、目的のためには寝食はおろか、一切をかなぐり捨てる家系。

本人の病的な執念もあった。
彼が研究者になれという無言の強制を無視し、がむしゃらに睡眠を削って勉強をしたのは
ただ、医者になりたかったから、という一言で片づけられた。

何故医者になりたかったのか、と言われれば、もちろん、
人間を思い通りに生かしたり殺したりしたかったからだった。
子どもに手を掛けやすく、信頼され、必要とされ、手段と道具が手に入る環境を。

それなのに、何故我慢しなければならない。頭の芯がじんと痺れる。

何で?

「数多くんのせいだ」

「は?」

従弟が資料から顔を上げると、木原虚空の顔は予想よりずっと近くで彼を見つめていた。

「何だよ、気色悪、」

彼は眉間にしわを寄せた。
腹の辺りに年上の男の握りこぶしが押し当てられた。ぷちゅ、と弾けるような音がする。
846 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(東京都)[saga]:2011/10/04(火) 16:57:30.55 ID:XOfpCezRo

「な、あ、」

資料を慌ててはね上げると、白衣の上から押し当てられた従兄の握りこぶしの間から
医療用のハサミの柄が覗いていた。

この野郎、やりやがった。

要観察、という老人の言葉を忘れたわけではなかった。
ただ、あまりに人間らしく振る舞うから、忘れていただけで。

イカレてやがる。気狂い。

そんな風に動く唇を掌で塞いで、木原虚空はへら、と中身の無い笑みを浮かべた。
愛想が良い、好青年だと言われてきた完璧な作り笑いではない。

「控えるよ。大人しくしてる。君の前では。それなら、仲良くしてくれるんだよね?」

引きぬいたハサミについた血を拭って、白衣のポケットに突っ込む。

痛み止めを静かにうってやる。
肘の内側に刺さる針に顔をしかめることもなく、震える手が白衣の襟を締め上げた。

「何の、つもり、だ」

「病院に行ってもらう」

「おれを、追いやって、何……する」

「なんにも? だから、おやすみ。元から睡眠不足だったんだ。眠いでしょ? 寝ていいよ」

重そうに瞬きをする感覚が、徐々に緩慢になる。
浅かった呼吸が静かになる。
舌が塞がないように献身的に首を傾けてやって、確かめるように彼も首を傾げた。

ドクドク緩やかに血が溢れる傷口をガーゼで押さえる。
男は受話器を持ち上げ、施設内の誰ともわからぬ研究員に向かって手早く声をかけた。

いつもと同じ、のんびりした調子の声を。

「もしもし? 数多くんが怪我をしちゃって。救急車呼んでくれない? 僕忙しいから」

軽い調子で「怪我」などと言うものだから、救急車を呼んだ者も軽い怪我だと思っていた。
847 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(東京都)[saga]:2011/10/04(火) 16:58:03.49 ID:XOfpCezRo

頭を打ったので一応病院で検査を、とか。
薬品がかかったからきちんとした洗浄を、とか。

木原虚空がそれをしないのも、本当に面倒がっているだけで。
もしかしたら仲のよい年下の従弟に過保護になりすぎているんじゃないか、と笑っていた。

だから、医務室のベッドで顔色をなくしている彼の腹に当てられたガーゼが、
たっぷり3枚も鮮血に染まっているとは思っていなかったのだった。

「何があったんですか!?」

「ちょっと不注意で事故を起こしたみたい。早く搬送して。一応痛み止めは打ってある」

入ってきた救急隊員が手早くシーツを抜き取って、ストレッチャーに怪我人を移していく。

医務室まで先導してきた研究員はただうろたえ、2人の親類同士の男を交互に眺めた。

ベッドサイドに置かれたソラマメ型をしたステンレスの膿盆に、
大判のガーゼが真っ赤に染まっていた。

立ち上がった虚空がその上に医療用の薄手ゴム手袋を外して投げ、
まとめて医療用のゴミ箱へ投げ込む頃には、彼の従弟は搬送されていくところだった。

「あの、先生これは……」

「薬で意識が朦朧としているかもしれないけど、出血はそこまでじゃない。
 心配ないよ。命に別状ない。静かにしてくれ」

「でも」

あんな怪我、何をしてできたのか。

「先生、あの」

白衣の背に声をかける。

何でこんなにいつも通りなんだろう。

他の研究所から回されたという医者は、医務室をまるで保健室のように変えていた。

仮眠場所を提供し、病院に行くほどでもないような相談にも乗り、薬を処方した。
女性職員のなかには、ただ紅茶を飲みにやってくるものもいるようで。

学生の時利用した、保健室のような、心地いい空間を提供してくれる。
穏やかで、丁寧な男で。
848 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(東京都)[saga]:2011/10/04(火) 16:58:55.61 ID:XOfpCezRo

「君、うるさいって言われない?」

「え、」

口元は笑っている。
目も優しげにほほえんでいる。

よくある、目が笑っていない、なんて、そんな分かりやすい感じじゃない。
彼は心底優しそうに笑っている。

ただ、気配だけが尖りきっているのだ。針のように。

「昼の食堂で数多くんの怪我の真相を話したいだけだろ?
 君、そういう人だね。情報がほしいだけ」

「あっ、ひ、私は……」

ぬるり、と長い腕が肩口に延びた。

「だめだなぁ、数多くんの怪我を噂話のネタにするなんて」

耳元でショキショキ音がする。
床の上に黒い髪の束いくつか、ぱらりぱらりと落ちた。

どうしてそんな穏やかな男が、こんな小さな研究所にまで回されてきたんだっけ。

「うひ、いいいっ!」

そうだ、この男は、

「行儀悪い」

バヂン。

「いひぃいいいいいいいいッ!!?」

右耳を押さえてうずくまった研究員に背を向けて、彼はハサミを蛍光灯に透かした。

その真下でぺろりと舌を出す。
ハサミを振って落とした滴がそこに乗る。

「……ダメだ。ぜんぜん興奮しないよ。ぜんぜん。ぜんぜん、ダメ」

「あ、ひぃ、みみ、耳、切っ?」

「取れちゃいないよ」

べっ、とうずくまる研究員の背中に血の混じった唾液を吐きつけた。
849 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(東京都)[saga]:2011/10/04(火) 16:59:29.12 ID:XOfpCezRo

「はい、手をどけて」

医者らしい物言いだった。それも小児科のそれのような優しい笑顔、物腰で。
何のためらいも感じさせない。

「ひぇ、い、やめ……」

「いい子だから。どけないと反対もやるよ」

ちょきりとハサミを鳴らしてやると、手はそろそろと開いていく。

チューブの薬品をべとりと塗り付けたガーゼで乱雑に耳を覆ってやって、
先ほどまで腹に穴のあいた従弟が横たわっていたベッドに追いやる。

「い、だい、耳、っ、ひ、」

ああ。

傷ついた耳がジンジン脈打つようだ、と研究員は浅い息をついた。
パニック。理不尽な傷害に対する恐怖。

そうだ。この人は、「木原」の人なんだ。

研究員は、先日うっかり実験体を植物状態にしてしまったときに、
先ほど搬送された「木原」に奥歯が折れるほど殴られたことを思い出した。

ぞっとするような恐怖。

なぜあの時、この研究所を辞めておかなかったんだろう。

見ていたかったから?
机上の空論と言われた案件が実験結果に結び目を解かれ露わになっていくその課程を?

好奇心で、救急隊の先導をかって出たことを後悔した。

「は……」

背後の濃い色のため息に身を堅くする。

殺される。かも、しれない。

研究員の下腹を恐怖が突き刺す。

「……数多くん。やっぱり、だめだ、僕。女の人も、男の人も」

違う。自分はお前みたいなバケモノの従弟じゃない。
さっきその人は運ばれていったじゃないか。狂ってる、こんなの……病気だ。

「ごめんね、数多くん」

分厚い本を優しく閉じたときのような音で、優しく医務室のドアが閉まった。

遠ざかる足音に、横たわったままの研究員が失禁せずにすんだのは、
単に15分前に偶然小用を済ませていたという、ただの幸運にすぎなかった。
850 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(東京都)[saga]:2011/10/04(火) 16:59:55.21 ID:XOfpCezRo

しばらくして、責任者の従兄の医者はひっそり研究所を去った。
学園都市という区域からも逃げ出した。

優秀な医務室の勤務医がやめていった理由は、しばらくあれこれ噂された。
尾ヒレとしか思えないような、そんな内容ばかりだった。

従弟が突然怪我で入院したことに責任を感じているだとか。

あの顔の痣は、退院した従弟にリンチまがいの殴打を受けたせいだとか。

入院中に実験室から消えてしまった植物状態の少女を連れ去ったのだとか。

施設内高温焼却炉の中で発見された人骨が彼のものだとか。

事実はすべて、耳に傷がある7-c斑研究員が知っているらしいとか。

耳の傷は所内の機密を外部に売ってしまったことがばれて責任者にヤキを入れられたとか。

学園都市を出て、下町で診療所を始めたらしいとか。

やくざもの御用達の闇医者が儲かると聞いて転職したとか。

事情を知っている者は、その耳に傷のある研究員と、責任者である彼の従弟だけだった。
噂の全てが嘘で、全てが本当。

木原虚空はその年、とある町に転居した。
住人が一家そろって惨殺された、といういわゆる「事故物件」の旧診療所を安く買い取った。

内装に手を入れ、掃除業者にすみずみ磨かせた。

大通りから直接入れない引っ込んだ所にあるいわくつきの建物は、小さいながらも
しっかりとした造りだった。以前ここに住んでいた一家の血の沁み込んだ床は本物の木材。

狭い待合室、つくりつけの受付のカウンターはそのまま。
診察室と、その奥には処置室が2つ。ここを、彼は入院患者の病室に当てた。
地下室は何の変哲もない物置部屋だったが、そこを改装して手術室に作り替えた。

一階はそのまま診療所。母屋は2階と3階だったが、彼1人が暮らすには十分な広さ。
最も、そこに1人で暮らしていた期間など短いものだ。

案の定、「なんでもやる医者」というのは重宝されるもので、なかなかに儲かった。
やくざ者からの依頼は多く、借金の返済能力が無くなったものから「担保」を押収する。

体中ばらばらにされて、製剤会社から金持ちの臓器不全患者にまで手広く売りさばかれ
それでも借金のすべてを返すことのできない者すらいた。

その場合、配偶者か子どもを売ることになるのだが、木原虚空はこれを報酬に要求できた。
851 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(東京都)[saga]:2011/10/04(火) 17:00:24.21 ID:XOfpCezRo

法規制が厳しいのだから、自分でルートを探すよりも
すぐに関係を断ち切れる医者にやってしまった方が楽だったのだろう。

地下の手術室は防音造りにされていた。

この年になってようやく、彼は獲物を長持ちさせる方がいいことに気がついたのだった。

そう毎日のように手に入るものではなかった。
だから、性交を週に1度程にセーブして、すぐに殺さないよう気を付けた。

少なくとも、一回の性交に指の一本くらいは切り落としてやりたい。
ひと思いにやっていいならば20×5で100日持つ。

手の指ならば、関節ごとに節約もできる。
もし我慢して、第一関節、第二関節とやっていけば33×5で165日。
爪を剥ぐだけでも我慢できれば55×5で175日。だが、そこまで我慢強くはなれなかった。

そのあと肘膝の下を切り落とし、肩と股の関節から切り落とす。8×5で、更に40日。
両目両耳と鼻が残っている。5×5で25日。
最後に胴体にとりかかっておけば、上手くやれば最長240日は持つ。

彼は腐っても腕のいい医者だった。
どうすればうまくいくかはわかっていたし、その通りに出来た。
けれども残念なことにそこまで長持ちする獲物はいなかった。

一番「持った」もので、203日だ。約7か月。
最後は痛み止めと抗生物質で中毒を起こしたのが残念でならなかった。

が、少なくともあの5カ月よりも長い禁欲はせずとも済む。

彼はそんな生活を送りながら、あの苦しくも人間らしかった5カ月を思い出す。
最後に子どもの時よりずっと冷たい目で彼を睨んだ従弟のことを何度も反芻した。
それでも何故従弟が自分を殴ったのかに関しては、まったく理解が及ばなかった。

お腹を刺したのはまずかったかもしれない。でも、治ったんだからいいじゃないか。
それに、子どもを殺すのはいけないことだ。そんなことは分かっている。
彼も知能が遅れている訳ではなかったし、むしろ頭はいい方だ。

自分がしていることのおぞましさは分かっている。
だが、実験の材料にされて脳に電極をつっこまれたり、生活のすべてを記録されたり
親の借金のかたに売られたりしている子どもだ。

どうせ、自分がやらなくても、彼らは遠くない未来、理不尽な実験にかけられ、発狂し、
性病にかかり、素人の手で弄り殺されるか自殺するか、あるいは。

なら、自分がやりたい。

そう彼は考えていた。
実際彼が手にかけたのは、そういった特殊な環境下の子どもだけだった。

そして、7人目の死骸を死体マニアに売りさばいてから3か月。

彼のもとに、鈴科百合子がやってきた。 
852 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(東京都)[saga]:2011/10/04(火) 17:01:08.00 ID:XOfpCezRo

ここまでです。

百合子くん出てこなくてすみません。
次回、ちょっと間空きます。
それでは!
853 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(関東・甲信越)[sage]:2011/10/04(火) 17:30:16.49 ID:j6sZkVwV0
ヤベェよ……気が狂ってる
ペドってこんなに気持ち悪いのか……
木原数多って、まともだったんだな
あと、乙
854 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします[sage]:2011/10/04(火) 17:36:45.94 ID:gFYokm0DO
想像以上にやべえ奴だった
乙 
855 :VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(東京都)[sage saga]:2011/10/04(火) 17:41:34.38 ID:XOfpCezRo

>>1です。

追伸ですが、もちろん小児性愛者全員がこういうわけではありません。

というか、精神科でそう診断されて治療をする人は、
自分が子どもに対して劣情を抱いていることに罪悪感を感じながら治療をしている人が多いそうです。
原因が幼少期の性的虐待にあるというケースもあります。

後述しますが、精神科で小児性愛を治すことはできません。
性欲そのものを減退させるために、女性ホルモンを投与したり、カウンセリングに毎週お金を払って通います。

実際に犯罪を起こしてしまう人はどうあれ、小児性愛の方全般への印象は偏らせないでいただきたく思います。
こんな話書いておいてあれですが、病気だということを理解してください。

この話の木原虚空は診断をほぼ受けている状態で治療をしないので、最悪のケースです。
きちんと治療を受けている方は、勇気も道徳心もある人格者だと思います。

つまんない話ですが、個人的にはこんな風に思っております。 
 
 
921 :とある一位の精神疾患[sage saga]:2011/12/29(木) 00:07:18.57 ID:K4Cb2VjZo

お久しぶりです!
>>1です。

けっこうたくさん書きました。60レスくらい。

例によって内容があれです。
「これはだめだな!」と思ったらすぐにスレを閉じたり、読みとばしたりしてください。

あと名前欄が気に入らないので、今回のみ↑こいつになります。
それと、できればPC閲覧推奨で。

長丁場ですので、飲み物を用意したら投下し始めます! 
922 :とある一位の精神疾患[sage saga]:2011/12/29(木) 00:09:46.51 ID:K4Cb2VjZo

鈴科百合子がこの診療所にやってきてから、7日経った。

彼の病室にはゆるやかな変化がもたらされている。

大きなベッドは変わらない。その上にはうず高くクッションが積み上げられ、
彼は傷口に障らないよう、そこにもたれて座らされている。

視線の先には、持ち込まれた家庭用の古いブラウン管テレビ。

そして、ビデオデッキ。

夕暮れの薄暗い部屋の中、鈴科百合子は見るともなしに流れる映像を観察していた。

「てれび」は知っている。

音がでて、絵が動く。人がうつることもある。
それはどこかで「しゅうろく」されたものだということも知っている。

ただ、長い時間それをぼうっと眺めるというのは初めての経験だった。

同居している女は彼がテレビを見ることを禁じていた。

彼女は好んでテレビ番組を見た。
が、そういう時はいつも、少年を風呂場かベランダに追いやった。

一番多かったのは押入に入れることだ。
壁の方を向いてきちんと正座しているように命令するのが常だった。

テレビがつまらなくなったり、コマーシャルになると、彼女は前触れもなく
押入の引き戸をあけて、少年が正座で壁の方を向いているか確かめた。

戸の隙間から覗こうとしていたり、脚を崩して伸ばしていたり、眠っていたりすると、
引きずり出してひどい目にあわせることがお気に入りだった。

幸いだったのは、押入の戸が薄かったこと。

息を潜めれば漏れ聞こえる内容をこっそりと聞くことができたし、
母親が戸を開けようとこちらにやってくる物音を聞くことができた。

鈴科百合子はそれほど「てれび」に興味を持ってはいなかった。

何を言っているかもよくわからない、戸越しの不明瞭でくぐもった音声。
母親を少しの間黙らせてくれる箱。

それが彼の中の「てれび」の印象だった。
923 :とある一位の精神疾患[sage saga]:2011/12/29(木) 00:10:41.82 ID:K4Cb2VjZo

彼のお気に入りは映画だった。それも、ヒット作であること。
パニックやサスペンスのような、退屈しないもの。

単純に、そういう映画は彼の母親を退屈させることがなかった。

恋愛ものはだめだ。
当たりのものなら女は少しだけ優しくなるが、外れの場合はひどくヒステリックになった。

コマーシャルの時間もだいたい決まっている。
しかも、その短いコマーシャルの時間は彼女に押入を開けさせることも少なかった。

女はトイレに立ったり、煙草を吸ったり、酒や菓子のおかわりを用意するので精一杯で、
コマーシャルが終わるとすぐにテレビの前に戻る。

だから、そういう映画が始まったことがわかると、
百合子はほっと息をついて痺れた脚を伸ばすことができた。

もちろん母親が家に居ない間にリモコンをいじってみたことがないわけではない。
彼にも知的好奇心くらいはある。
しかし、その好奇心はあまり良い結果を生まなかった。

リモコンで操作することは知っていた。
が、彼は母親がどうそれを使っているかよく知らなかったのだ。

苦心して電源を入れたはいいものの、消すことができず、
あちこちいじくり回すうちに音量をだいぶ上げてしまった。

そのときは何とか戻すことができたが、帰宅した母親がテレビを付けた途端、
最大音量に設定された音声が部屋中に響きわたり、後はご想像の通りというやつだ。

そういう事情で、彼はテレビをぼうっと眺めるということがなかったのだ。

しかし、このテレビは彼の家にあるものとは大きく違うようだ。

コマーシャルがない。
映画に似ているが、内容がわからない。

そして、出てくる人々のほとんどが大人で、服を着ていなかった。

初めてテレビを眺めた鈴科百合子の感想は「わからない」で埋め尽くされていた。

どうして黒いガラスに絵がうつるのか。
なぜ絵がぐにぐにと動くのか。
どうして宣伝をやらないのか。

画面に映る彼らは何をしているのか。
924 :とある一位の精神疾患[sage saga]:2011/12/29(木) 00:11:08.96 ID:K4Cb2VjZo

床には見終わったビデオやパッケージが散乱していた。

その数は正確にはわからない。
少なくとも「せんせい」がこの部屋に居ないときは常にそれがかけられていた。

部屋に、女性の悲鳴が響きわたる。

百合子はそっと重くなった目を擦り、耳をふさいだ。

何をしているのかまったくわからない。

大抵、この部屋のテレビに映る女性は裸にされて、男に組みしかれ、
ぎゅうぎゅうに押しつぶされては変な具合に泣き声を上げていた。

しかし今画面に映っているのは、四つん這いになった全裸の女性が
黒い棒で尻を叩かれて悲鳴を上げる映像だった。

いつもの気持ちの悪い喘ぎ声ではなく、苦悶の悲鳴だった。

彼が毎日のように母親に向かってそう言うように、
画面の中の女は男に向かって繰り返し叫んだ。

「ごめんなさい。わたしは悪い女です。許してください、ご主人様」

大体そんなような意味のことだった。

冷え固まった呼吸を肺から絞り出し、百合子は全身をぶるりと震わせた。
四肢の温度がすっかり失われている。

恐怖と戸惑いが、ゆっくりと全身に広がっていく。
いったいこの映像が何を意味しているのか、相変わらずそれはわからないままだ。

彼には、どう見ても女は嫌がっているようにしか見えず。
反対に背中や尻を棒で打ち続ける男の方は残忍な笑みを浮かべている。

何か本能めいたものが、ここ数日見せられ続けた映像のすべてに機械的な判断を下す。
「本来見てはいけないものだ」とカテゴライズしていた。

今流れている映像は、その中でも特に見てはならないものだろう。

画面の中には、奇妙なロープやベルトで体の線を歪められた女。

黄色っぽい肢体にはミミズ腫れと蝋燭のしたたりが赤く。

「う、」

口元に手を当てた途端、きしりと音を立ててドアが開いた。

「ェぐ、え゙、、、、、、っ」

「あぁー」

顔を合わせた瞬間、病衣とシーツに吐瀉物を零す。
失礼な少年を眺めて、診療所の主はゆるやかに首を傾げた。

「洗濯、しなきゃだ……」
925 :とある一位の精神疾患[sage saga]:2011/12/29(木) 00:12:01.77 ID:K4Cb2VjZo





                -8 しかたない 執行編




926 :とある一位の精神疾患[sage saga]:2011/12/29(木) 00:12:41.11 ID:K4Cb2VjZo

部屋に垂れ流されていたソフトSMものの安いアダルトビデオを停止させる。

午後の仕事に見切りをつけて、今日の仕事をここまでと玄関を閉めてしまった。
彼の最初の仕事は、吐瀉物を片付け、洗濯をし、子どもを風呂に入れることになった。

「ものの見事に吐き戻したねぇ。3時間前に食べた物をどうやったらここまでまるっと……」

「ご、めンなさ、」

「いいんだよ……」

やはり、もっともっと刺激物を控えるべきなのだろうか。

手作りの病人食を与えるべきなのだろうとは分かっているのだ。
残念なことに木原虚空の数ある欠点の一つに「料理が出来ない」ことも含まれていた。

食事は惣菜、レトルト、インスタント、冷凍食品などのものか、デリバリーや外食だ。

あとでレトルトの粥でも買ってこようか、と脳内に残念な思考を描いておく。
昼に食べさせた菓子パンの残骸を片付け、彼は患者の少年をひょいと抱き上げた。

「汚いのはよくないからね」

「、、、きた、ない」

「そうだよ。おいで」

シーツにくるんだ病衣を洗濯機に放り込んで、適当に洗剤を放り込む。

バスタブの中に落とした子どもの頭にシャワーをかけてやると、
押さえたこんだように小さな悲鳴が上がった。

ざあ、と24時間給湯の暖かい湯が漏れて、白いバスタブの中から柔らかに湯気が上る。

「傷もいいみたいだけど……」

頭を湯からかばおうと腕を曲げ、目元にかかった髪をぬぐいはらおうと指を動かす。
無防備な少年の下腹部に目をやって、木原虚空は嘆息した。

「やっぱり精通は見込めないね」

「せーェつ、、、」

「9歳だし……この体格じゃ無理があったのかな」

ボディーゾープのボトルを取りながら、木原虚空はため息の色を深めた。
927 :とある一位の精神疾患[sage saga]:2011/12/29(木) 00:13:02.65 ID:K4Cb2VjZo

「困ったなー」

きちんと3食食事を摂らせ、きちんと睡眠と休息も与えた。
ごく微量だが、ホルモン投与もした。
ほとんど一日中アダルトビデオを見せ続けることもしている。

他に、これ以上促し方はないだろう、というような手段も取ったがやはり兆しはなかった。

せめて、精液さえ採取できれば、それをしかるべき研究機関に保存させることもできる。
そうすれば母親の言われるままに手術を施しても、将来子どもを望めるかもしれない。

だったら初めから手術を断ってしまえばいいのに、それは端から考えていなかった。

彼にとっても好ましいタイプの手術だからだ。やってみたいだけだった。

普段だったら気にしないだろうに。
木原虚空はなぜだかこの子どもに入れ込んでいる自分に気がついた。

9歳という年齢は健康な小学生でも精通を迎えるには早すぎる。
その上貧栄養と極度のストレスのために成長が遅れているのだ。

初めて風呂に入れてやった日、そのやや色の薄い茶髪に何本も筋になって走る白髪や
無理やりに引き抜かれたような痕を見ている。相当な状況だった。

最初から無理は承知だ。
けれど、上手くいかないのは面白くない。
下腹部に手を滑らせても、怯えて手足を縮め、息をひそめるだけだ。

「い、、、や、めて、」

「まったくだめみたいだね。普通出なくても勃つ子は勃つんだけどねぇ」

シャワーの湯で手についた泡を流して、シャンプーを掌に出す。

「目を開けると痛いよ」

「ひ、、、っ」

兆すどころか嘔吐するとは思わなかった。

かしゃかしゃと、泡まみれの髪を掻き混ぜる。柔らかく細い髪がぬるりと指に絡む。

指先がさりさりと生え際の立ち上がりをくすぐって、掌に泡が滑り落ちる。
やや長い髪がねろりと指の叉を撫でて、針の先で突いたような性感をもたらした。

最近していないからだ。

処理ならしている。ただ、満足するほどのことじゃない。
928 :とある一位の精神疾患[sage saga]:2011/12/29(木) 00:13:29.30 ID:K4Cb2VjZo

「……流すよ」

前置きしたつもりでシャワーの湯をかける。
が、元から目を堅く閉じていた百合子にそれは見えない。

「あ゛、、、ン゛くっ、、、」

「あ」

飲んだ。

「ひっ、え゛ッ」

ごぽ、と狭い食道を押し広げるような音がした。
飲みこんでしまった濁り水と、僅かに残った胃の内容物がぼとぼと零れていく。

「え、、、は、っ、、、うァ」

えづいてしゃくりあげる背中をそっと撫でながら、シャワーで汚物を排水溝に流した。

「流す時は口を開けてちゃだめだよ」

「ご、、、めな、、、」

「目に入ってない?」

こくりと頷くのを確認して、手早く顔をタオルで拭ってやる。
残った泡を流すと控えめなくしゃみがぷしゅりと漏れた。

「うーん」

「ご、ごめンなさ、、、」

「これはちょっと面倒なケースかも」

「ゥ、」

傷つけるのはまずかった。

あの母親を殺してこの子どもを手に入れるのは簡単だが、今はそうもいかない。
向こう数カ月の暮らし向きは心配ないが、そのあと稼げるかはわからないのだ。

それに、母親に会うのは初めてだった。

あの女がこの子を産んで育てたのだろうか。
そう思うと、何か汚らしいものに見える。
929 :とある一位の精神疾患[sage saga]:2011/12/29(木) 00:13:57.54 ID:K4Cb2VjZo

あの女の中で生殖活動が起きて、中から生き物がひり出されたというのか。

ぐらりと脳が揺れる。吐き気がした。
手にかけるのもおぞましい。

特殊な構造をした優秀な思考回路が突破口を見つけられずにクルクル彷徨う。

指一本も切り落とせない。
なら、どうすればいいのだろう?

「、、、せ、ンせェ、、、っ。め、あけたい」

眼を閉じたままぶるぶると震えている。
自分の姿を探してゆらりと両手を差し伸べる。

同じ所を巡っていた思考回路が、一点のゆるみを見つけた。

「……うん」

そうだ。

「そうだね……」

「ひ、っィ、、、」

おとがいに触れると、火傷したように身を引かれる。

怯えている。
この子は、もうとっくに受け取っている。

それが指先から感じ取れた。じわりと濁った色の笑みが彼の頬に浮かぶ。

自分から与えなくても、この子は勝手に感じ取って、取り込んでいる。
わざわざ痛みを与えなくても、この子は。

こちらが叩き、殴り、剥ぎ、切り落とす「必要がない」ほどに。

もう、怯えているじゃないか。

だったら簡単だった。

「もう開けてもいいよ」

素直に開いた薄い色の瞳の際を舐めてやると、撫で上げた首筋に鳥肌が立つ。
悲鳴を上げようとした喉笛を掌に収めるだけで、苦しげな息をつく。
930 :とある一位の精神疾患[sage saga]:2011/12/29(木) 00:14:23.99 ID:K4Cb2VjZo

だったら「痛めつける」必要なんてない。

ざわざわと、腰の辺りがむず痒くなるほどの興奮が脊髄を往復する。

「い、、、は、、、やめ、ェ、、、」

不器用に払いのけようと、少年の腕がのらりと動く。
抑えつけるのは簡単だ。
けれど、だから払いのけられるのが楽しい。

自分がその気になればすぐにでも壊せる。
そんな脆弱なものを、あえて大切にしてみるのはなかなか新鮮だった。

昔、誕生日に貰った一羽のカナリヤを思い出した。
本当にガスに弱いのか知りたくて、ガラスの書棚に火を付けた蝋燭と一緒に閉じ込めた。

鳴き声が聞こえなくなった所で戸を開けると、ぴちち、と啼いてバタバタ羽を広げる。

何度もカナリヤを書棚に閉じ込め無邪気に笑う。
父親はそんな息子を止めることなく、微笑ましいとばかりに見守っていた。

自分が書棚を開けなければ、このカナリヤはすぐにでも死んでしまう。
そして、額をガラス戸に押しつけて、ゆっくりとカナリヤが死ぬ所を観察した。

痛めつければ誰だってカナリヤのようになる。
助けてくれと懇願して、書棚の戸に手をかけてくれるように怯えと絶望に満ちた瞳で願う。
そこで初めて、自分の命を相手が握っていることに気付く。

しかし、もうそんな必要ない。

だったら、

「おいで」

ぐいと腕を引いて、バスタオルにくるんでやる。

この子は、蝋燭なんていらない。
書棚に閉じ込めるまでもなく、自分が容易く痛めつけられてしまう可能性を知っている。

「い、、、、や、だ、」

「よしよし。いい子。いい子だね……百合子」

「い、」

我慢する必要だってない。

ほっとしたような気持ちで、1人の男は微笑んだ。
931 :とある一位の精神疾患[sage saga !orz_res]:2011/12/29(木) 00:15:42.63 ID:K4Cb2VjZo











長いこと、眠っていたような気がした。

水。
ざあざあと勢いよく流れる水だ。音がする。

水?

空気を孕んで注ぎ込まれ、気泡が弾けて、たゆたゆと揺れる。
水が流れている。
音がする。 


どこから?

眼を見開くと、目の前にはいつも通りの景色が広がっていた。
サイコロのような形の立方体の部屋だ。

その隅に、それは転がっていた。

モルタルだか、石だか、コンクリートだかはわからない。
堅くて冷たい壁。それが壁面の三方向をコの字型に囲っている。

褪せた水色のタイルの床は中央に向かって、ごくなだらかに窪んでいる。
真ん中には四角い鉄製の排水溝の格子蓋がはまって、そこに水気が流れ落ちる造りだ。

古いシャワールームか、銭湯の洗い場ような、それでいて乾燥した廃屋のような部屋。

ただ異質なのは、堅い壁には蛇口の一つもなく、浴槽もないこと。
そして、コ字型に設けられた冷たい壁の開いた辺を閉じるのが、
天井まで届く大きな鉄格子だということだ。

格子の端には、小さなくぐり戸がついている。
錠が下りているが、鍵はどこにもない。

その奥で何かが横切るように揺れた。
誰だろうか。
瞬きをして顔を上げる。

ぱちゃ、と水音がした。
932 :とある一位の精神疾患[sage saga !orz_res]:2011/12/29(木) 00:16:16.46 ID:K4Cb2VjZo

「ゆり、こ……?」

部屋に水が溜まっている。

倒れていた人影が体を起こす。僅かに頭痛と目眩がした。
長く眠っていたように。

「水?」

流れる音がする。

視線を彷徨わせると、排水溝の真上に注ぐ水流が見つかった。

サイコロ状の部屋の真上から落ちて来る。
見上げると眩しげな光が眼を差して、水の出所を探すこともできない。

部屋の水は、隅の方に起きあがった人影のかかとや脹脛や腿と、
タイルの間をゆらゆらと洗うほどの水位に達している。

排水溝が詰まっているのか。
いや、排水はされている。

ごぼごぼと気泡があふれて、ゆっくり渦を巻いて流れ落ちている。

ただ追いつかない。

注水される勢いに負けて、少しずつ、じわじわ水が溜まっていく。

「な、ンだ、これ!」

慌てて水を掻いた。
途端に、弾けるようなバチンという音がこだまする。

「い゛ッ!?」

左耳を押さえると、そちら側だけ別の音が聞こえだした。
右耳から注がれる水音ではない。どこか別の、

                    「い゛、やっ、、、ィ、、、だい、いだいィっ、、、だっ、あ゛」

「ぎっ!?」

声が聞こえた途端、それに呼応するように全身が震えた。

引きちぎれるかのような痛みが一分の隙もなく体を覆い尽くしている。

                                       「やァ、め゛、、、っ、ェ゛」

「百合子? ゆり、」

切れかかった導線越しに会話しているように、ぶぢぶぢとノイズが邪魔をする。
933 :とある一位の精神疾患[sage saga !orz_res]:2011/12/29(木) 00:16:57.83 ID:K4Cb2VjZo

                                      「い、いィい゛い゛っ、、、」

                                      「あー、大丈夫だよ……」

ひく、と人影が喉を鳴らした。

何だろうか。この声は。

                         「だ、めっ、、、ひだァ、、、ッだァい、、、やめ、」

                                   「どっこも切れてないから、ね」

聞いたことがある。気持ちが悪い。何か、よくない声だ。

百合子が泣いている?
この声、こいつが悪い、のか。

どこかで聞いたことがある。
どこだ?
何故見逃した?

何故そいつが百合子と一緒にいることを許してしまった?

背筋が冷える。
胃を掴みだされたような、強烈な吐き気。

片耳から聞こえる百合子の声が、もはや発音できないレベルに上ずった。
ひゅうひゅう喉を鳴らして、力の足りない咳をする。

何、をしていたんだろうか。

守らなければ。
百合子を辛い目にあわせてはいけないんだ。

百合子はもっと暖かで、静かでもっと、優しい所で、笑っていないといけないんだ。

そこに連れていかなければいけないんだ。
こんなところに置いておいたら百合子は、いつか、壊れてしまうかもしれない。

ゆるゆると顔を上げる。

水の注がれる眩しい頭上を仰ぎ見る。

「……ッ俺、が」

バチン、とスイッチの切り替わるような音。

体がどこか暗闇に叩きつけられる感触がした。
934 :とある一位の精神疾患[sage saga]:2011/12/29(木) 00:17:25.58 ID:K4Cb2VjZo











「がっ……ァ?」

「うん?」

手元で突然驚いたように痙攣した体に、男の掌があてがわれた。

「いっ! イ、は?」

その掌にも体を引こうと腕を突っ張るが、何もできない。
そんなことはもちろん不可能だ。

「あっ? あ゛……かっ?」

ぎじ、と何か擦れる音がした。
何かで拘束されている?

肘と手首と、それから脚に何か絡みついている。

それが両腕をまとめてねじり上げ、冷たい金属の天板にうつ伏せの胸を抑えつける。
肩がぎしぎしと痛む。肺が押しつぶされて上手く息が入っていかない。

脚の方はもっとひどい。
全く動かすことも出来ず、床に指が届くギリギリの高さに吊りあげられている。

脚の力を抜けば胸に全体重がかかって苦しい。

無理につっぱって立つせいで今にも腱がひきつれそうだ。

体を僅かに揺すると、上半身を乗せている台のようなものが音を立てた。
捻りあげた状態で固定した拘束も僅かに軋んだだけだ。外れる気配はない。

「?」

苦しい。
ひたすらに苦しく、全身が鈍く痛む。

何が起こっているんだ?

目の辺りに何か違和感がある。両目に何かが被さって、視界が奪われているらしい。

顔を上げると首と頭を掴まれた。
先ほど通りに伏せさせて、首筋にきつく爪を立てられる。
935 :とある一位の精神疾患[sage saga]:2011/12/29(木) 00:18:10.01 ID:K4Cb2VjZo

「いだ……ァ!」

状況など把握できるはずもない。

あまりにも非日常で非常識で考え難い状況だ。
把握できた方がおかしいだろう。

最も日頃から痛めつけられ方を知っていた者だ。
その異常性の臭いを嗅ぎ取ることだけは早かった。

両足のつま先はぎりぎりで冷たい床板に力をこめられる程度。
服は引きはがされている。

家庭用の脚立の天板に腹ばいになり、両足を伸ばして支柱に固定。
テープやロープで全身をがんじがらめにされているのだ。

「ひ、」

背中に捻り上げられた両腕のせいで肩が外れそうに不吉な軋み方をした。
伸ばしっぱなしの細い脚も、今にも腱がつりそうだ。

どうなっているのか、状況も飲み込めないまま小さな体が怯えて動いた。

何かを振り払う仕草をする。
が、当然目隠しにつけたアイマスクは取れないし、拘束をほどくこともできない。

「大人しくしてないと、ひどいよ?」

「、かひ」

何か後ろで動く気配がして、ようやくこの全身を突き刺すような痛みの正体が判明した。

ざわり、と鳥肌が立つ。

血流を歪められて手足が冷え切っているからでも。
服を剥がれてうす寒い部屋の外気に震えた訳でもない。

大脳にくるまれたもっともっと奥からの、本能の警告。

「あ、……あ゛っ?」

内臓だ。

「あ゛……ッえ゛?」

内臓に触れられている。
936 :とある一位の精神疾患[sage saga]:2011/12/29(木) 00:19:06.07 ID:K4Cb2VjZo

男の手が、それを理解させるように腹をゆっくりと撫でた。
内側から何かが腹の肉を持ち上げて、歪ませている。

「……――っ」

脳の最深部が盛大に警鐘を鳴らした。

いけない。これは、良くない。

内臓を突き破られる。死んでしまう。そんなところを晒してはいけない。
今すぐ、やめさせろ。

「あ……ェ、っ、あ、あああ、あ……っ? ああ、あ嫌っ、だ! やだやめろッ! ぐッ!?」

「苦しい?」

ぐっと男の手が医者の触診のような事務的なしぐさで下腹部を押した。

丁度膀胱の上を押されて、一瞬針のように鋭い尿意を思い出す。
恐怖がそれを膨らます。

何でもいいから放してほしい。
暴れようとした腕を更に捻り上げられ、悲鳴が一段高くなった。

「いだいィいいい――――……っ! やェ゛、やべろっ! いいい、い゛ィいいいいい――ッ!?」

「はは……声枯れちゃうよ」

手を放されると、代わりに男は何事か身動きした。
ごき、と下腹部の底で痛い音。何か温いものが太股を伝って行く。

同時に痛みを解放されて、何かの思考と力が緩んだ。
先ほどから刺し込むように下腹で暴れていた尿意が静かにおさまっていき、
代わりにつま先が温い池にひたる。

「あーあ……」

喉元を撫でる指が優しく気道を狭めてくる。

動けない。
拘束をされているからでも、何でもない。

「我慢できなかったの? 悪い子だな。床汚して。僕が片付けるのに、ひどいね」

怖い。
937 :とある一位の精神疾患[sage saga]:2011/12/29(木) 00:19:27.64 ID:K4Cb2VjZo

「や、ら。やだ……め、てくださ……! ねがい、しま、やめ……っえ゛ろォ! やべろォ!」

「やめる訳ないだろ?」

耳のすぐ後ろに生温かい風が当たる。

嫌悪感からか、生理的にか。涙がどっと溢れて目の周りを濡らした。
吐息がかかった部分をねろりと舐め上げられる。

気持ちが悪い。

吐きそうだ。

少しでも腹に力を入れると激痛と苦しみが襲うのに、声を上げずにはいられない。
叫んだ分の空気を取り込もうとするが、今度は上手く吸えない。吐けない。

脂汗が噴出し、何かで拘束された掌がぬるついた。

全身が冷える。

寒い。
それなのに体の中に真っ赤に溶かした銅を流し込んだかのように熱い。苦しい。

「あ゛、あェえ゛ッ!? げっ、えェ゛……っ!」

「ひどい声だな。動物みたいに」

「い゛、や゛ァ、」

死んでしまう。

「あ、かっ、ハ、あ、あ、っ、ああああああ゛、あ゛、や……」

「窒息すんなよ……百合子……」

「かッ!? ひ……?」

ぞぶ、ぞぶ、と体内で何かが内臓を突き破ろうと暴れる。

やめろと排出する動きを削って、食いあらす。

「ゆ、り……」

死ぬ。

「ィ、こ……、ご、め……」

百合子が、死ぬ。
938 :とある一位の精神疾患[sage saga !orz_res]:2011/12/29(木) 00:20:08.81 ID:K4Cb2VjZo

                                              (ねえねえ)

真っ暗な視界のせいで痛みと恐怖だけが増幅された世界。

右耳のすぐ後ろの辺りから女の声が聞こえた気がした。

「あ゛っ! あ、ああ?」

                                    (ねえ、聞いてる? おーい)

「ァ……」

                                                何だよ。

                                                うるせェ。
                  今どういう状況か、分かってねェンじゃねェの、このバカ女。

                (知ってる知ってる……バカにしすぎじゃないの? ぎゃははっ)

                                  何だコイツ。本当に何なンだよ。
                             人の頭の中でごちゃごちゃごちゃごちゃ。

                  (なーんて言っちゃってるけど、あんたの頭じゃないでしょ)

                                                   あ?

                         (百合子の、でしょ? わかってないのかなん?)

プツ、と回線の切れるような音がして、その声以外の音が静かに息を引き取った。

                                         (痛い? くるしー?)

                                            痛ェし苦しい。

                                         (へー。お疲れさん)

                                           うるせェ。失せろ。

                        (失礼な! つーかさぁ。かわってあげるよ、それ)

                                                 はァ?

                                              (かしてみ)

重力の向きが変わったかのように、平衡感覚がぐにりと気持ちの悪い感覚をもたらした。
                                    どこかで鉄錆の臭いがする。

かわる、ってなァ……これ、痛ェ、ぞ?

(いーんだよ)
939 :とある一位の精神疾患[sage saga !orz_res]:2011/12/29(木) 00:20:35.03 ID:K4Cb2VjZo

                                            ばちゃ、と音。

                        相変わらずざあざあと流れている水の音がする。
半分水浸しになったタイル張りの床上で、ぐったりと放り出されたまま人影は顔を上げた。

何がいいンだよ。

                          上から何か黒っぽい人影が覗き込んでいる。

                                           輪郭は少女だ。
                  少し年上の。中学か高校の制服のようなものを着ている。

(いいから、まかせなよ。あんた、結構痛いの苦手でしょ?)

好きなわけねェだろ。

(世の中にはそんな人もいんの)

オマエ。

(んー?)

でてくなら、言葉づかい。

                     (……あァ。心配すンな。うまくやってやるからさァ?)

……

                              (こンなもン? ぎゃっは、キモーい!)

下手。

               くすくす、と笑い声がして、少女の人影は部屋の隅を指差した。

(……あとさ。あンま管理、怠るンじゃねェよ)

                                     鉄格子のはまった一辺だ。
        隅の出入口がこじ開けられて、錆びた鉄格子がぎぃ、と音を立てて軋んだ。

(オマエがそンなじゃ、百合子は死ぬよ?)

うるせェ。

(……わかってるってなら、最初からこンな目に)

ごめ、ン。

(ン……ならいい。寝てな)

                               細い指が申し訳程度に髪を梳いた。
940 :とある一位の精神疾患[sage saga !orz_res]:2011/12/29(木) 00:21:02.36 ID:K4Cb2VjZo

オマエ、さ。

(あァ?)

今でてくと、痛ェ、ぞ。


       さ、              ざ
                        ざ。


           ざざ
             ぁ。
                     ぁ


                                          ざ
                                         ざ
                                         、
                                       ざ
                                        。

                                ざ
                               ぁ
                                あ
                                 ぁ
                                あ
                               あ

                              ぁ

                               ぁ

                                  。


                                      水の流れが音を失った。

(いいンだよ)

なンで?

「慣れてンだよ……私は」

               ぶづ、とスイッチを切ったような音がした。
941 :とある一位の精神疾患[sage saga]:2011/12/29(木) 00:21:28.90 ID:K4Cb2VjZo











数日が過ぎた。

狭くて埃臭いアパートの一室で、1人の女が忙しなく歩き回っている。

西日がゆるく部屋を染め、じんわりと温度を上げる。

すぐに日が落ちて寒くなるのだったら、最初から温めることもないのに。
女はいらついていた。

「……百合子」

かり、と爪を噛む音。気付いて指先を唇から離す。
すでに何本も先をギザギザにしてしまっていたらしい。舌打ち。

「百合子……」

腰を下ろして脚を伸ばすと、古くなって毛羽の立った畳がむず痒く脚の皮膚を掻いた。

「あぁあっ……もう! いや!」

拳を壁に叩きつける。

痛い。

膝を抱えて両手の指を髪に差し込んでも、頭の中の苛立ちはちっとも治まらない。

いらいらする。
むしゃくしゃする。

何だかわからないが、誰かに怒鳴り散らしたい。
このいらいらを誰かのせいにして、こんな気持ちにしたことを謝らせてやりたい。

蹴ったり殴ったり喚いたりして、ストレスを発散したい。

誰に?

「……百合子。百合子」
942 :SS寄稿募集中 SS速報でコミケ本が出るよ(三日土曜東R24b)[saga]:2011/12/29(木) 00:22:05.15 ID:K4Cb2VjZo

腹が立つ。何故今ここに居ない? 約束の日はとっくに過ぎているのに!
どうして私がいらいらしているのに慰めない?

じわりと黒っぽい澱が腹の底に湧いてくる。
惨めだった。涙が滲みそうになる。

どうして。どうしてこんな仕打ち。どうして?

ピチリと音を立てて何かがはまり込んだ。
あの男のせいだ。

あの男、と思ったときに、2人の影が重なりこんだ。
1人はこの間会ったばかりの白衣の男だ。
偉そうで、気難しそうで、どこか自分をバカにしている医者。

それから、もう1人の男。
ぎり、と彼女の噛み締めた奥歯が鈍く音を立てた。下腹部でイライラが暴れる。

早く百合子に帰ってきてほしい。
あの子は私にとって、たった一人の――……
 . .. .
「わたしの」

そう、私のものだ。

百合子は私のものだ。
私のものなのに、どうしてみんな勝手に口を出す?

優しく病院に連れて行ってやったのに、どうして医者なんかに睨まれなければいけない?

手を引いて歩いているだけで、何故隣の家の男はため息交じりにすれ違う?
挙句の果てにあいつは躾をしているだけで家に怒鳴り込んでくる。

何勘違いしてるんだろう。

あれは私のだ。
私の百合子だ。

彼のでも、彼女でもない。

「私のよ」

あんたのじゃない。私の百合子。私のよ。私の百合子よ。

女の長い爪が畳にがりがりと削る。爪と肉の間に小さな毛羽が突き刺さる。
痛い。むず痒い。苛立ち。飽和。

「あぁー……」

うふ、と柔らかい笑いが唇から勝手に漏れだした。

「迎えに行かなきゃ……百合子」
943 :SS寄稿募集中 SS速報でコミケ本が出るよ(三日土曜東R24b)[sage saga]:2011/12/29(木) 00:22:34.90 ID:K4Cb2VjZo











忙しない調子でインターホンが鳴らされた。
男は彼女の姿を認めて、微妙に表情を変化させる。

ゆっくりとそれが愛想笑いをつくり、ドアを解錠する。

「こんにちは。どうされまし」

「百合子は?」

ひくりと頬がひきつった。

またこの女だ。
入院を延長する旨は電話で伝えてあったし、その理由も説明したはずだ。
妙に生返事だったのが気味悪くて、早々に電話を切ってしまったのが良くなかったのか?

だとしたら、相当難ありだ。

「……まだ入院中ですが」

「面会くらいさせてください。私のなんです。私の……!」

喰ってかかろうとする彼女の肩を押さえ込んで、男は猫なで声を出した。

これは「難」だ。
元から女は嫌いだし、頭の悪い女はもっと嫌いだった。
なにより自分以外に子どもに怪我をさせる人間は大嫌いだ。

だが、この女は母親なのだ。

「落ちついてください。そもそもあなたのご希望ですよ?」

「でも、」

「納得していただけますから」

そういって、彼女は診察室とは名ばかりの応接用の部屋に通された。
944 :とある一位の精神疾患[sage saga]:2011/12/29(木) 00:23:24.21 ID:K4Cb2VjZo

「返してください」

「お帰りは四日後の予定だとお電話で伝えたつもりですが」

少しぬるい紅茶を出してやるが、女はまた口をつけなかった。
握りしめたのか、彼女の人差し指の脇に赤い三日月形の爪あとがくっきり残っている。

「別に誘拐しているわけじゃ……治療のために来たのでしょう」

「そうです。けど、」

「あなたのご希望でしょう」

女がショックを受けたように目を見開いた。

「でも……」

つるりとした眼球を洗い流すように、目頭から涙のつぶが膨らんで零れ出す。
まるで女優みたいな泣き方だ。

「百合子はわたしのなんですよ?」

「……」

「返してください」

「まだ帰せません」

「返してください!」

「い、」

嫌です、という言葉を、男は慌てて飲みこんだ。
子どもっぽいことを考えている場合ではない。

まずこの女に返したら、また虐待を繰り返す。傷が開く可能性だってあるのだ。

もしかしたら抜糸にも来ないかもしれない。
化膿するかもしれないし、ひょっとすると消毒さえ満足にしてやらないかも。

「ですから、あの」

「いいから返してよ! 警察に行くわよ!」

小娘のように癇癪を起した女が握りこぶしでローテーブルを叩く。
振動でカップから僅かに紅茶が零れて、白いソーサーの窪みに溜まった。
945 :とある一位の精神疾患[sage saga]:2011/12/29(木) 00:23:45.61 ID:K4Cb2VjZo

早く洗わないと紅茶の染みが残る。

「わかりました」

警察に行かれても、もみ消すことは出来るだろうが、面倒だった。

どうせ、またここに連れて来るんだ。
自分以外に頼りはない。またここに来る。また入院させてしまえばいい。

そうして自分を慰めて、男はため息をついた。
握り締めた手のひらに、爪の数だけ赤い三日月が残る。

「わかりました。諸注意と退院の用意をしますから」

「今すぐしてください! 今日連れて帰りたいんです!」

今にも掴みかかってきそうな顔色で、女は室内の奥に繋がるドアと男を何度も見比べた。
まるでそのドアの奥に隠しているんだろう、と言いたげだ。

「手術の痕の消毒は毎日してください。あと抜糸にもここにきて……」

「手術のあと?」

女の語気が少し緩む。
涙を慌てたように拭って、鼻をす、す、と鳴らす。

まるで躾けのできていない犬だ。
男はイライラと両手の指を組んだ。

「膿んでしまいますから」

「背中の?」

「いえ、ですから、」

電話の内容を本当に記憶していないらしい。

馬鹿な女は嫌いだ。

「経過がよくなったので精巣を除去する手術をしましたから」

「え」

「傷を洗って、毎日消毒してください。術後ですから安静に。食事も……」

呆けたように固まっていた頬が

「はい……はい! します! 先生、しますから!」

犬なんて、ちょっと餌をやればすぐ尻尾を振る。
この女、人間の思考回路よりそっちの方が近いのではないのか。
946 :とある一位の精神疾患[sage saga]:2011/12/29(木) 00:24:17.00 ID:K4Cb2VjZo

待っていろと念を押して、男は奥の扉から自宅のスペースにすべりこんだ。

「あぁ……」

終わってしまう。
帰ってしまう。

そう、他の今まで壊した子どもたちと違って、百合子には帰る家があるんだ。

だがそれは決して温かな家ではない。
辛く寒く惨めなはずだ。体を見ればわかる。

「あんな、酷い……」

階段の半ばで顔を覆って、男は立ち止った。

薄暗い階段に窓から細く日が差す。
その光の帯が両手に覆われた彼の左目の上を温めた。

涙が出そうになる。

出そうになる、というのは、出ないから言うのだ。
渇ききって空虚な気持は涙を流せるほど潤いをたたえていない。

あんな、あんな犬のような馬鹿な女のところにあの子を帰してやるなんて!

プライドがずたずたと傷つけられる。

壁の手すりに寄りかかって、重々しいため息を肺から押しだした。

「何て酷い仕組みなんだ……」

せっかく治した。
開いた傷にガーゼを当てて、清潔に、暖かくしてやった。

そして新しい傷も与えた。

目に見えないように、腹の底、肉の底、思考と本能の底の底を抉りぬいて。
絶対に治らないように。

人生を大きくねじ曲げる手術だって施した。

それを心の支えに、男はゆっくりと体を起こした。

そうだ。
あの子の人生はもう変わってしまった。

もう僕のものだ。

階段の上のドアを開けると、いつも通り大人しく百合子は横たわっていた。
947 :とある一位の精神疾患[sage saga]:2011/12/29(木) 00:24:43.40 ID:K4Cb2VjZo

「やぁ」

天井をドロリと見つめている薄い色の瞳がややこちらを向く。

「、」

そっと髪をなでつけて、白い耳の辺りを掬うように掌を当てた。
細い首筋から子どもの体温と微かな脈が伝わってくる。

「君のお母さんが迎えに来ちゃった……」

飴玉のような瞳がゆっくりと瞬きした。

「残念だけど、君は一度退院を」

「何してるんですか!?」

両肩がはねるほどに驚いて、男は部屋の出入り口を振りかえった。

少し乱れた黒髪を直しもせずに、鈴科百合子の母親はそこに立っていた。
ドアノブにかけた手を引っ込めようか迷ったような、中途半端な格好で男を見つめている。

「何してるんです?」

血液が、ざあ、と音を立てて男の足の裏に集まっていった。
不自然に跳ね上がった腕が女の声を制止しようと空を切る。

「その、その子に触らないで!」

「あ……僕は、」

「いいからっ!」

びくりとひっこめた手を隠すように袖を引き、男はベッドの上に屈めていた背を伸ばした。

短く深呼吸。
やや薬の臭いのする部屋の空気がなだれこむ。

頭に空気が回って、少し熱を持ったざわつく心をほんの少し、冷やした。

「……私は医者ですから、患者に触ることだってあります」

「でも」

「どうするんです? 触らないと、脈もとれない」
948 :とある一位の精神疾患[sage saga]:2011/12/29(木) 00:25:09.71 ID:K4Cb2VjZo

女は言い返す切り口を探して手を少し震わせた。

「ひ、必要以上に」

「必要な時以外触りませんよ。当たり前でしょう?」

慌てて張り付けた医者の顔は流石に何年もかかって体に染みついていたらしい。
女はたじろいだように顎を引いた。
内心、少し安堵する。

「一度診察だけして、そのあとで薬などをお出ししますから」

「あ、あの、服を」

「服?」

女はそっと紙袋を差し出した。
飾り気のない白いものだ。

「その子、連れてきた時に、あの、服を……」

「あ、ああ……服」

そうだ。
ハサミで裂いてしまったが、雑巾でもここまで、というような汚らしい布だった。

そう男は思い返した。

最初に連れてきた時は女物の小奇麗な子ども服を着せていたのに。

またあの汚らしい服が入っていたら。
そう思うと、男の中のやや潔癖な部分がじとりと手のひらに汗をにじませた。

「わかりました。着替えですね」

差し出した指先に、冷たい女の手が紙袋を預ける。

「百合子……」

そのままベッドに屈みこんで、女は少年の薄い色の髪を撫でた。

「お母さんよ? ね? 帰りましょうね、おうち」

「、ァ」

「いい子ね……」

袋の中はきちりと畳まれた服が入っていた。
少なくとも雑巾ではない。それどころか、新しい衣服特有の糊のような匂いがした。
949 :とある一位の精神疾患[sage saga]:2011/12/29(木) 00:25:36.12 ID:K4Cb2VjZo

「では、診察しますから、先に出てください。先ほどの診察室に戻って……」

「ドアの外にいます」

こちらを振り返りもせずに女はそういった。

「ですが」

「何がいけないの? 私はあなたの依頼主でしょ?」

一瞬、この女を殺してしまうことが全ての解決に思われた。

女を殺して地下室に運んで、解体して標本マニア向けにまた売りさばいてしまえば。

不可能か?
いや、そんなことはない。

男は白衣のポケットの中で伸縮包帯を握り締める。
先ほどとっさにポケットに突っこんだが、解けば1.5メートルほど。無理ではない。

だがそれは自分の望んでいることだろうか?

「……」

「な、んとか、言ったらどうなんです? 先生」

僕はこの生活を続けたくないのか。

「結構です」

「え?」

「隣の部屋で待っていてください」

「……わかりました」

僕は子どもを殺しながら1人で生きることに、少し、疲れた。

男は握りしめていた包帯を離して、女のためにドアを開けてやった。
当惑したような彼女の頬は青白かった。
化粧の下はまだ二十歳かそこらの小娘のような肌をしていた。

「待っていてください」

「? ええ、はい」

成長した女は嫌いだ。
成長した男も嫌いだ。

なら、どうしたら僕は子どもを殺さずに生きていけるのだろうか。

百合子は、男でも女でもないものになろうとしていた。
950 :とある一位の精神疾患[sage saga]:2011/12/29(木) 00:26:41.16 ID:K4Cb2VjZo

閉じたドアの向こうで、女は少しだけまごついて、そして隣の部屋に入って行った。
しんとした家の中で、静かに隣のリビングのソファが軋む音を聞く。

しゃりしゃり、と衣ずれがして、後ろで肘をついて起きあがる気配があった。

「……起きたいの?」

「う、く……っさ」

空咳をいくつかして、先ほどのガラスのような眼とは別物のように強く、男を睨んだ。

「触ンな……」

「ひどいね。強がらなくていいから。着替えて、支度をしよう」

紙袋を足元に落とすと、ベッドの上の瞳がそれに向いた。

「俺を返す?」

掠れ声だったが、確かに男はそう聞きとった。

「ああ。帰さなきゃいけないんだって」

「あの女に」

「そうだよ……あの女にね」

きつく握り締めた手のひらがチリチリ痛んだ。

それを不思議そうに眺めて、少年は男を見上げる。
のけ反るように、上体を反らして肘で支えながら。

「嫌いなのにか?」

「え?」

「あの女、いやがってる。俺を返すのもいやなんだろ?」

緩んだ飴色の瞳が急にせがむような色を乗せる。

「お願いだから……」

「けれど、僕は」

手のひらをシーツに押しつけて、少年はぐっと俯いた。

日に当たらない首筋が長めのショートカットの下から露わになって、
暗い部屋の中でシーツよりぬるい白が浮かび上がった。

「返さないで、ェ、ください。お願いします。百合子を、返さないでください」
951 :とある一位の精神疾患[sage saga]:2011/12/29(木) 00:27:07.69 ID:K4Cb2VjZo

気がつくと、男はベッドのはじに腰かけて、少年の髪を撫でていた。

「……提案があるんだ」

「提案」

顔を上げたのを掬いあげる。

首を絞められると思ったのか、慌てて男の手首に細い指が巻き付いた。

「君は……もうすぐ男性じゃなくなる」

「知ってる」

「そうしたら何になるんだ?」

まつ毛が悲しそうに瞬いた。

「何?」

「女じゃない。男じゃない。君は成長してもきっとどちらにもなれないようになるだろうね」

薄く唇が笑う。
子どもの顔じゃない、そう思った。

何もかも辛いことを呑みこんだ時に出る顔だ。

「誰も君のことを愛さなくなるんだよ。それが彼女の注文だから」

悲しい?

そう尋ねると、僅かに首をかしいだ。

「もォ、俺のこと好きな奴なンざ、最初からいねェから……」

「じゃあ契約をしよう」

ゆるりと瞬きをしてから、また少年は鸚鵡返しをする。

「君が大きくなったら、僕のところに来る?」

瞼がいっぱいに見開かれた。

唇はアの形に開かれ、しばらくして悲しそうに引き結ばれた。

「オマエは……」

「先生」

「先生は、百合子を痛めつけるか?」

「わからない」
952 :とある一位の精神疾患[sage saga]:2011/12/29(木) 00:27:34.48 ID:K4Cb2VjZo

正直な気持ちだった。

「アレより、酷いか?」

隣の部屋の方に視線を向けて、少年は続けた。

「わからない。でも、殺さないし、治してあげる」

「治……」

部屋の時計の秒針が二周りする間、どちらも何も言わなかった。

「百合子が好きか?」

「う……ん? 多分、いや、どうだろうか」

限りなく最低にほど近い解答は、その分正解にも近い素直なものだった。
彼にはこの子どもに虚栄を張る必要が無い。

成長しても未完全なままでいてくれる人間なら、自分にも愛せるようになるのだろうか。

「わかった」

「え?」

考え事に埋没しかけた男の頭はやや目眩を覚えた。

「何を?」

「ここにくる」

鳩尾になにか違和感を感じて、男は胸の辺りを押さえた。

「ここに?」

何もかも、内臓ごと吐き出したくなるような動悸。
喉が詰まってそれ以上続けられない。

「くる。から、百合子を、それまで、治して」

安定しない一人称を不器用に使う子どもを男は抱きしめた。

「……ああ、ああ! 治してあげるよ」

「約束」

指を絡めるだけでは足りなくて、小さな手のひらを握りこんだ。
953 :とある一位の精神疾患[sage saga]:2011/12/29(木) 00:28:05.35 ID:K4Cb2VjZo

「じゃあ、君はもう僕に対してどういう風にすればいいかわかるね」

「は、い……」

喉から絞り出すようにそう言って、辛そうに少年は項垂れた。
毎日洗ってやったおかげで絡まなくなった髪がさらさら零れる。

「いい子だね」

撫でると、逃げるように指から落ちていく髪を追いかけて、ぐっと握る。

痛そうに顔を歪めて、無理に上向かされたまま、視界の端に男を捉える。
飴色の瞳に映った自分が随分嬉しそうな顔をしていることに男は少し怯えた。

僕はそんなに餓えていたか。

白衣の袖を引かれて、僅かに思考を引きもどす。

「返すか? 俺を」

「そう……一度帰らなきゃ。手術が全部終わったら、彼女も満足する」

一瞬だけ絶望的な目をして、シーツに握り締めたような皺を作った。

「それまで?」

「そうしたら、うちにおいで。そうしたら」

そうしたら、どうなるだろうか。

男は柔らかく膝の上に乗せた小さな体を抱きしめた。

「そうしたら……」

僕のものだ。

「は、ィ……」

少年が、口の中で謝罪のような言葉を呟いたのに、男は気付けなかった。

「ごめン。百合子」

部屋の中に返事をしてくれるものはいなかった。
954 :とある一位の精神疾患[sage saga]:2011/12/29(木) 00:28:32.69 ID:K4Cb2VjZo











百合子が退院したら着せてやろう。
そんなことを思って、気を紛らそうと買った服だった。

似合うかしら。

待っていろと言われた隣の部屋は妙に寒々としたリビングだった。

そこで眠れそうなほど大きなソファーと、ラグを敷いた床にロ―テーブル。
その上に包帯やテープがころころ転がっているのが妙に病院を意識させる。

隅の方には何だかわからない黒いボストンバッグが二つ投げ出したように置いてあり、
ゆったりとした室内のなかで安っぽく無骨な印象を投げかけている。

テレビやコンポのような娯楽はなかった。雑誌の一つも置いていない部屋だ。
テーブルの角にきちりと折りたたまれた今朝の朝刊だけがそっと乗せられている。

ソファーに腰かけた時に丁度目につく場所、普通ならテレビでも置いてある場所には
彼女の腰のあたりまである脚立が一台、広げたままに置いてあった。

「変なの……」

脚立の下には荷物を梱包するような白いビニールの紐が、うじゃうじゃとのたうっていた。

新聞でもまとめたのかしら。
あの男がそんな日常的な仕草をするなんて、なんだか奇妙だった。

なんとなくソファーに座る気になれなかった。
脚立の天板にそっと指を触れると、痺れるほど冷たく冷え切っている。

「何かありましたか?」

「ひっ」

予想よりもずっと近くでその声は聞こえた。

「済みました。今着替えさせていますから」

そう言った男との間はたった3歩分ほどだった。
ドアの開く音すらさせなかった癖に、男の顔は少し青ざめて見えた。

着た切りの白衣の照り返しかもしれなかった。
955 :とある一位の精神疾患[sage saga]:2011/12/29(木) 00:29:15.05 ID:K4Cb2VjZo

ベッドの隅に腰かけて口元を拭っている百合子は先ほどまでの前合わせの服ではない。
しっかりと、女の選んだ服を身に着けている。

脱ぎ捨てられたものを見るに、大人用の病衣の上を着せられていたようだった。
検査衣みたいなものだ。

もってきた服は彼女の思った通り、見かけだけならよく似合った。

「あ、」

呆然とドアを開けた彼女を振り返った百合子は、困ったように、へら、と笑った。

薄い緑のブラウスと、黒のニットベスト。ベージュのキュロットスカートは短い。
そこから突き出した細すぎる両足に紺のハイソックスを穿かされている。

「百合子、帰ろう?」

「か、える、、、」

「ね、お母さんと。ほら」

寒いだろう、と別に持っていたコートを差し出すと、百合子は僅かに困ったような顔をした。

着せてやろうと広げられたコートに対して、受け取ろうとおずおず手を伸ばす。

普通の子どもの挙動に一致しない戸惑いや迷いの仕草。
「コートを着せかけられる」という状況にまごつく指先が、おずおずと袖に腕を通した。

この年頃なら自分から背を向けて「着せて」と言ってもいいはずだった。
勿論、女はそんなことに気付かない。ふりをしている。

「あんたが居なくてさびしかったわ」

「あ、あの、、、ごめンなさい」

そうだ。

「お母さんを置いて行っちゃダメ。いいわね?」

「お、いてく、」

「ね?」

「ン、、、はい、ごめンなさい」

そうだ、これでいいんだ。
女はようやく自尊心がゆるゆる戻ってくるのを知覚した。
956 :とある一位の精神疾患[sage saga]:2011/12/29(木) 00:29:44.49 ID:K4Cb2VjZo

百合子の申し訳なさそうな笑顔は見ていると張り倒したくような表情だったが、
その態度は女を満足させるものだった。

ようやく世界が正常な状態に戻ったのだ、と女は思う。

「じゃあ帰ろう?」

「、はい」

ボタンを留めてやりながら首を傾ぐと、百合子は空咳を一つして、素直に頷いた。

その少し薄い色の瞳が自分の頭越しに背後の医者をおずおず見上げるのがわかった。
すこしだけ優越感を得る。

百合子は私のなのよ。

いくらここに置いておいても、それだけは変わらないのよ。
百合子が好きなのは私だけで、あんたは私みたいにすることはできないのよ。

見せつけるように手を引いて、女は階段を下りた。
横に座らせて消毒の手順や抜糸の時期について相談した。

「いいですか、絶対に怪我をさせないでくださいね」

「わかってます! それじゃ私がしょっちゅう怪我をさせているみたいじゃありませんか?」

ぎゅっと百合子の手のひらを握りこむ。

「ン、」

肩を震わせて、百合子は大人しく女を見上げた。

「ね?」

「、あ、、、はい」

薄い色の瞳がつ、と医者の男の方に滑った。

「百合子」

「あ、」

耳を摘まんでやると、それは女の方に怯えた色を乗せて戻ってくる。

「は、、、い」

それでいい。
そんな男に目をくれる必要はない。
957 :とある一位の精神疾患[sage saga]:2011/12/29(木) 00:30:15.09 ID:K4Cb2VjZo

「お薬の話は分かりました。どうもお世話になりまして」

向き直って頭を下げると、女は即座に腰を上げた。

「あ……」

手を引かれた百合子が一瞬男の上げた声に目を向けかける。
しかし、母親の感情に敏感な生き物は、学習した通り男に瞳を逸らすことをしなかった。

「あ、あの……!」

強く肘を引かれて、女はくらりとバランスを崩す。

「きゃ」

「次の、診察は消毒もありますから。五日後に……」

奇妙に必死な男がこの子どもを欲しがっているのはなんとなく察せた。
だから女は黒髪を肩の後ろに打ち流して、顎を挑戦的に持ち上げた。

「一週間後というお話でした」

「しかし、あの……良くないんです」

「だめです。家での消毒を増やしますから大丈夫ですし、五日後は予定が合わないわ」

「だったら!」

ヒステリックに上ずったあとで、男は短く呼吸した。

「でしたら退院は認められません」

その僅かな時間で何かを取り戻したように、目の前の男は医者に戻ってしまう。

「私は依頼主よ」

「私は医者です」

らちが明かない。
だから女は、一番残酷で容赦のない手を使うことにした。

「百合子も一週間後が良いわよね? おうちに帰りたいでしょ?」

「う、」

ギクリと手の中に握りこんだ細い指が震えた。
じとりと手のひらに汗を滲ませる。
958 :とある一位の精神疾患[sage saga]:2011/12/29(木) 00:30:41.37 ID:K4Cb2VjZo

長年痛めつけられ方と従い方を仕込まれた小さな生き物は、
ほんの少しだけ、何か縋るものを探すような目つきをする。

「う、ン」

弱弱しく、首は縦に振られた。

やった。
女の心の中の最も重い色をしたあたりが、じわっと滲みだして愉悦感を煽る。

「じゃあ先生にお願いして?」

面喰ったような悲しげな表情を見せた後で、ゆっくりと百合子は男に向き直った。

「は、、、ぼく、かえる、、、ほうがいィ、です」

「……そう。そうだね」

「ご、っご、めンなさ、、、」

ゆっくりと動いた男の手に反応して、首をすくめて腕で頭をかばう。

「いいんだよ」

「あっ、ゥ、く、」

女のそれより大きな手のひらが、そっと丸い頭蓋骨にそって髪を梳いた。

日に当たらないせいで生白く、女性のようになめらかな指と丸い爪が耳の辺りを撫でる。

「……いいんだ」

ぬめるような声に、女の背筋がさっと何か良くない物を感じ取った。

触らないでほしい。
やめてほしい。

女の脳に、いつだかの誰かの影がふっとよぎる。

                                            「しないの?」

目の前で医者の指に絡む薄い色の髪が、遠い日の陰に揺れる。

「あ」

女の声にビクリと反応した指は名残惜しそうに髪をすくった。
そそくさと白衣のポケットに戻って行く。

「……わかりました。くれぐれもお大事に」

「はい……」

胸の底にさざ波を感じながら、女は言う。
午後のゆるやかな室内で、影になった部分がざわりと肥大したような気がした。

「百合子くん、またね」

「ひ、ッ、、、は、、はい」

ひらりと手を振った男の姿が、百合子の最後に見た白衣の男の姿になった。
959 :とある一位の精神疾患[sage saga]:2011/12/29(木) 00:31:13.11 ID:K4Cb2VjZo











自宅に戻るまでのタクシーは、女にとってじつにのろく感じられた。

アパートの階段を子どもの手を引き、ほとんど引き摺るようにして駆けあがり、
ドアの内側に滑り込むと、彼女はしっかりと細くて小柄な体を抱きしめる。

ひ、と短く細い悲鳴を上げて、百合子は体を硬直させた。
寒さに耐えかねた時のように震えあがり、しゃくりあげる。

「あ、ァ、、、ごめっ、ンなさい、あの、、、あ、っ」

「百合子、おかえり」

「ふ、、、」

ぎゅっと抱きしめたまま髪を撫でてやると、ほんの少し腕の中の体から硬度が失われる。

「、っ」

百合子が耳元で何事か言おうと息を詰まらせたのが女にはわかった。

早く「ただいま」と言って欲しかった。
あんな陰気な病院よりも家の方が好きだ、と言わせたかった。
ずっとそばにいると約束させたかった。

「……百合子?」

「は、はい」

そっと引き離すと、怯えた様子で胸の前に腕を引き上げている。
自衛と拒絶のポーズだが、それを読み解けるほど賢い女ではない。

どうして「ただいま」って言ってくれないのかしら。

女の心の中は珍しく澄んでいた。そこに、不満が一滴の墨を垂らしたように靄をかける。

彼女は敢えてそれを無視した。
960 :とある一位の精神疾患[sage saga]:2011/12/29(木) 00:31:34.64 ID:K4Cb2VjZo

「百合子? どうしたの? おうちに帰ってきた時は何て言うの?」

「え、うっ、、、ごめ、ごめンなさい、、、」

ポトリ、と、また墨が落ちる。

「ごめンなさい、、、ごめンなさい、」

「ねえ、百合子」

「ひ、っェ、」

ポト。

ぞわり、と黒いものが湧いた。

女の眉間にしわが寄る。
それを敏感に察知した百合子の肩が強張る。
それが、また気に入らない。

「ね?」

「う、」

知らないのだ。
「おかえり」なんて言葉は知らない。

公園から帰った時は怒号と共に引き摺りこまれるのだ。
「おかえり」も「ただいま」も、百合子の頭の中だけの知識なのだから。

「ごめ、」

「もう、いいわ」

ため息とともに伸ばされた手に、百合子は堅く目を閉じた。

しかし、予感していた殴打はなく、静かに髪を梳かれて抱きしめられた。

「ン、、、」

「ただいまっていいなさい。百合子、おかえり」

「た、たァいま、、おかァさン、、、」

ぐっと抱きしめると、腕の中の骨の浮いた体が少しだけ柔らかく受け止め返した。

腹の底の方に眠っていた耳かき一杯ほどの母性本能が女の体いっぱいに膨れた。
百合子は私のものだ。

だったら退院まで耐えておくべきだった。女がそれに気付くのは、もっとずっと後のことだ。

女はまだ知らない。

だから。
961 :とある一位の精神疾患[sage saga]:2011/12/29(木) 00:32:10.48 ID:K4Cb2VjZo

「百合子、お風呂に入ろうか」

寄せた首筋から臭った、病人特有の体拭きの薬品と消毒の臭いに、女はそう手をひく。

「おふろ」

「お母さんと。ね。手術したんでしょう?」

「ン」

首を傾げる子どもの靴を脱がせて、風呂場に連れて行った。

「はい、ボタン外すわよ」

黒のニットベストをゆっくりと脱がしにかかる。
頭をくぐらせようと裾を上げると、百合子は僅かに首を振った。

「う、や、、、」

「お風呂嫌なの?」

うん、とも、ううん、とも取れるようなかすかな声が上がった。
薄いグリーンのブラウスの襟元を握り絞めて、くっと顎を引き、女を見上げる。

「綺麗にしないと、退院したから傷が悪くなったなんてお母さんが怒られるのよ」

「き、きたない、の」

絞り出すように、百合子はそれだけ口にした。

汚いのだ。
百合子の体は。

「そうよ」

傷まみれで、痩せて細り、奇妙に白く。
そげた古傷の肉が凹み、新しい縫い傷が横切る。
放置されていた時垢じみたままほっておかれたせいで、肉のよったところが爛れていた。

「だから、綺麗に洗わないといけないの」

「でも、、、」

だれかが指で一本一本辿った傷痕は醜い。
だれかが開いて縫い合わせた傷はまだ肉が上がってこないまま。

「いいから、はい」
962 :とある一位の精神疾患[sage saga]:2011/12/29(木) 00:32:31.78 ID:K4Cb2VjZo

「いっ、、、や、、、」

手早く手を解かせて、女は傷の具合を見ようと服をまくりあげる。

「えっ?」

肋骨のなだらかに浮いた百合子の腹には、何かぬめるような液体がこびりついていた。

「いや、やめて、、、ごめ、ごめンなさ、」

頭をかばうように両腕を上げた。
そのせいで、シャツの中に籠っていた特有の生臭さが女の鼻先をこする。

「えっ、え? いっ?」

「ごめンなさいっ、いやだ、あれはやだっ、やだ、」

ぐるぐると嫌なものが女の中で形作られた。

そして、何より早く彼女の右腕が腹に精液を塗りつけられた子どもの顔を張り飛ばした。

「いぎ、ィっ」

床にビタンと叩きつけられ、虫のように腹を丸める。

かたく左目と口元を押さえて、引きつけのようにしゃくりあげる生き物だ。

もう女はそれが自分の可愛い子どもなのだと思ってはいない。
この百合子は、いけないんだ。

「何? 何よ。おかしい、あんたおかしいんだわ。こんなの、気が、狂ってる……」

腹を蹴りあげられて、むずかるような呻き声を発した。

奥歯に指を噛ませて、食いしばって声を殺すやり方は、いつだって
女に殴られてうるさい泣き声をあげてしまわないための癖じみたことだ。

「、、ッい」

「なんでよ!!」

掴んで投げると、小さい体は女の細腕でも軽々と放ることができてしまった。

ぼろぼろになった押入れのふすまに肩をぶつけ、柱の角に脚を打った音。
そして畳に重い荷物を落としたような音が響いた。
963 :とある一位の精神疾患[sage saga]:2011/12/29(木) 00:33:05.77 ID:K4Cb2VjZo

「なんで? なんで? どうしてそんなことばっかり起きるのよ!」

震えるように頭を揺らす百合子の前髪を引いて起こす。
畳にもう一度叩きつけようとした、丁度その時だった。

  「うるさいっ!」

だん、と真隣の部屋から壁を叩きつけるような音と振動が走った。

熱いものを当てられたかのように女はそちらを振りかえる。
その頬に、窓から入った陽が当たる。
百合子はそっとまつ毛を上げて追いかけた。

取り繕った外見に似合わない悪態を漏らしながら、女は百合子の頬をもう一度張る。

「何じろじろ見ているのっ! まったくなんて子なの。気持ち悪い……」

「、、、」

「頭がおかしいんだわ。やっぱり頭がおかしいのよ。あの人のこどもだもの」

掴んだ前髪で引き摺って出窓程度のベランダに放る。

謝ろうとしたかったが、百合子にはどうにも動けなかった。
奥歯に噛ませたままの指はとっくに歯がきつく食い込んで、きりきりとした痛みがあった。

「死ね」

バン、と戸が跳ね返るほどに勢いよく閉められた。

女の手の動く具合で、百合子にはベランダに鍵をかけてあるのがわかる。
日が出ているとはいえ肌寒い戸外、ブラウスと薄いキュロット一枚だ。

隣や下の階の人間だったとしても、そのあまりの手際の良さと思いきりの良さに、
子どもが殴られているとはまさか思えないほどだろう。

女性が掃除でもして重いものを落としてしまった。
悪態をつき、ベランダに荷物を叩きだした。
そんな程度の間隔で、ごく日常に行われる行為だったが、今はただ一番にこたえた。

ずっと水に浸かっているなら、いつか慣れ始めるだろう。
肌が逆立って、肩を強張らせながらも中に立ち続けることができるだろう。

一旦ぬるま湯に使った後で浴びせられた冷水は今までのどんな冷たさよりも身にしみた。

痛みのためか寒さのためか、がくがくと体が震えた。

そっと左目を覆った手のひらを外してみる。
視界が皺を寄せたようにぼんやりとし、瞬きだけで痛みがある。
964 :とある一位の精神疾患[sage saga]:2011/12/29(木) 00:33:32.42 ID:K4Cb2VjZo

素直に手のひらで覆いなおして、暖を逃がさないよう脚を腹の方に引き上げて丸くなる。
ちょうど膝を抱えたまま横になるような形だ。
ベランダの雨に洗われた木目が頬に食い込む。

ふと、頭の上の方から戸をからりと開ける音がした。

まさか女がまた殴りに来たのか。
顔を上げるが、開いているのはベランダの柵の向こう側だった。

なんだ。
まだ寒いままなのか。

ぼうっと、見るともなしに隣の部屋の男性がこちらを眺めているのを見つめ返した。

「おい……」

ぼけた視界のせいで、男の表情は読みとれない。
少し迷うように首を傾げた後で、男は戸を開け放ったまま、ちょっと引っ込んだ。

ぐねぐねと、体の下がうねるように吐き気の波が寄せては引いた。

男はまたしばらくして顔を出し、観察するように百合子を眺めた。

そうして、百合子の横になった所に届くかどうか、という柵のぎりぎりに
湯のみを一つ、ことんと置いた。

慣れていない野良犬に餌を投げてやるように、恐々と震える指。
女がベランダの戸を開けないか、そわそわと監視しながら、
その男はそれを百合子の方に押しやった。

コンビニの安っぽいハンバーグ弁当を、がさがさとうるさいふくろから出す。
それも板張りのベランダに並ると、温めたばかりのように湯気がふやりと立ち上った。

箸をわざわざ割った。それらすべてを置いてやってから、男はそっと戸を閉め。
悲鳴を殺そうと奥歯に噛ませたままの指を外しながら、百合子は思考をめぐらす。

一体だれが、ベランダまで食事を食べに来るんだろうか。

動物にやるのだろうか。

その動物もベランダに追い出されているんだろうか。

でもきっと、自分より賢いに違いない。食事を貰えているんだから。

「、、、いいな、ァ」

自分が誰からも愛されないことは知っていた。

軽い脳震盪と痺れるような疲れに、まぶたがゆるゆる重くなる。
痕がつくほど指を噛んでいた唇の端から、血の混じった唾液がつっと垂れた。
965 :とある一位の精神疾患[sage saga]:2011/12/29(木) 00:33:59.85 ID:K4Cb2VjZo











バチッ、とスイッチの入れ換わるような音がして、体がビクリと震えた。

「う、ゥ……!?」

思わず見開いた左目は酷い痛みを発した。
どこかにぶつけただろうか? いや、腹も痛い。我慢できないほどに。
だから切り替わったのだ。

風が強く吹いた。
寒い。もう日が暮れかけていた。ベランダ? あの女、またやったのか。

体をゆっくり起こすと、鈍い頭痛が重く取り巻いているのがわかった。
喉がからからに乾いている。

「み、ず……」

左目をきつく押さえた途端、目の前の重いガラス戸ががらりと開いた。

「っ、ひ!?」

ぼけた視界に、こちらを見下ろす女の影が見えた。

表情はどうだろう。わからない。
百合子ほど感情の機微に敏感にはなれなかった。つくりが違うのだ。
存在意義を別に持つ生き物が同居しているせいで、差がくっきりと線になる。

「ァ……」

「反省したの?」

何のことだろう。何でもないのかもしれない。
とにかく首を大人しく縦に振った。

「あんたが悪いのね?」

肯定。

「お母さんがきらいなの?」

否定。

これくらいなら簡単だ。自分でもなんとかできるかもしれない。
とにかくこれ以上体を損傷しないことが必要だ。首を動かすたびに目と耳の奥が痛んだ。
966 :とある一位の精神疾患[sage saga]:2011/12/29(木) 00:34:26.70 ID:K4Cb2VjZo

入りなさい、と言われて這って中に滑り込む。
毛羽だった古い畳は、それでもベランダの板張りより余程柔らかで暖かかった。

何も言われなかったことにほっと息をつく。
夕日の届かない部屋の隅の暗がりで邪魔にならないように膝をかかえた。

ため息をつきながら女は髪をかきあげ、アイロン台の前に腰を下ろした。

「それで?」

手仕事の最中だったのか。
灰皿に置いたままの吸いさしの煙草をくわえて、女は視線だけを部屋の隅にやった。

「どういうことなのか言いなさい」

薄い女物のブラウスに、しゅう、とスチームアイロンが霧をふく。

クリーニングに出す程の金はない。
服のことは、ただの女の自己満足だ。

重い年代物のアイロンを乗せると、柔らかな音と共に蒸気が上がった。

「……ど、う、いう?」

「だから、あれよ!」

だん、とアイロンを台に叩きつける。

「っ、」

何のことだ。
視界がちかちかと揺れる。

考えろ、考えろ。
何かしたんだ。百合子が、俺が?

左目をきつく押さえる手に汗が浮く。

無理だった。

今がいつだか、わからない。
あの病室で医者と約束をしてから、何時間たった? ひょっとすると、何日?

服は同じものだが、あてにならない。
説明しろと言われていることが自分の知っていることなのかそうでないのかも、わからな

い。

クソっ、起きろ、百合子。百合子? オマエが起きねェと、

「どういうことかって聞いてるのよ! このグズッ!」

「あ゛っ!?」
967 :とある一位の精神疾患[sage saga]:2011/12/29(木) 00:34:54.23 ID:K4Cb2VjZo

吸いさしの煙草が投げつけられる。払いのけようとしたむき出しの腕に当たった。
小さな爆発でも起きたかというほどの熱さが襲いかかる。

「――っ、づ、ァ……」

「うるさいっ!」

怒鳴りつける声はどこか抑えたようで、女は肩越しに一瞬だけ隣の部屋の方を見やった。

「静かにしてなさい」

百合子なら、指を奥歯に噛ませて声を殺すやり方を知っている。
百合子なら。

「い、ッ、……」

「何なのよ、あれは」

吸い殻の当たった痕をそろそろと舐める子どもに向かって、女はそう聞き返した。

やすりでもかけられたかのようにひりつく肌を冷ます唾液も出てこない。
声を出そうにも、乾いて張り付いた喉が酷く痛んだ。

頭が痛い。
干上がりそうだった。

「み、」

「早くっ!」

出来うる限り下手に出ようと、薄い色の髪を畳に擦りつけるようにした。

「水、ください……おれ、声、あの……しゃべれ」

「……っ、あああああ! あんたは!」

「いッ!」

今度は吸い殻の乗ったままの灰皿が投げつけられた。
熱くもなく、安物の軽いものだったが灰まみれになって吸い込んだために、ひどくむせた。

「馬鹿! 今、何を聞かれているかもわからないのね!?」

髪を掴んで引き起こすと、左右に何度も頬を張った。
皮の柔らかい子どもだから、頬の内側を歯で切った。
血の混じった粘度の高い唾液が泡になって伝う。

「い、だいッ! いィ……や、いだいいいいいィィィ――っ!!」

「うるさいっ!」
968 :とある一位の精神疾患[sage saga]:2011/12/29(木) 00:35:20.81 ID:K4Cb2VjZo

畳に口と鼻を塞ぐように押し付け、女は荒い息をついた。

「あんたがいけないんだわ。聞いたことあるもの。馬鹿はうつるの。遺伝するの」

ヒステリックに髪をかきむしりながら、女は続けた。
指に絡んで髪が数本抜けていく。

「あの人の子どもだもん! もうだめなんだ! あんたの頭がだめなのよ!」

うつ伏せに組みふせて、シャツをまくりあげる。

「ひ、」

「だから! こういうことになるんでしょ!? あんたの頭がゆるいからっ!」

「ち、ちが……ぶっ、」

そのことだったのか。

体を押さえつけられて息も満足にできない中で、頭の中だけが勝手に筋書きを組み立て

る。

これを怒られているんだ。

病室で医者に首を絞められながら塗りつけられたもののせいで。
あいつのせいだ。あいつのせいなんだ。

百合子は悪くないのに。

苦しくて勝手に切り替わってしまった、俺が、一番悪いのに。

「思い知らなきゃいけないのっ! あんたが、自分で頭がおかしいって!」

「ぢが、」

「だからっ」

しゅうう、と柔らかい蒸気の音が立ち上った。

「ひッ!? が、」

刺さった、と思った。

直感的に走った痛みは背中の上の方から真直ぐに中に突き通って、
そのあと鈍くて恐ろしくきつい痛みがのろのろと溢れるように皮膚の上を広がった。

「あ゛あ゛ァ、あああああァァァ――! あい゛、ぎひっ!? い゛やァァあ゛あああああああ――!!」

ぶぢぢ、と、薄いビニールをあぶった時のように皮膚が縮みあがった。

「だめなの! 私が、なんとかしないと、あんたあの人みたいになっちゃうじゃない!」

皮下脂肪などほとんどないような背中に、肩甲骨の真上から。
年代物のスチームアイロンが薄い皮膚を焼いて、奇妙に嗅いだことのある臭いを発した。
969 :とある一位の精神疾患[sage saga]:2011/12/29(木) 00:35:48.20 ID:K4Cb2VjZo

全身が悪い熱病のときのように震えて、脂汗が噴出した。

古傷があっても、まだなめらかに隆起していたはずの背中が
まるでむしり取られたかのように爛れて溶けていた。

「かは……」

息をしても痛い。瞬きをしても痛い。
もう限界だ、そう思った。

無理に叫んだせいで喉が痛かった。

全身が氷漬けのように震えて、熱くて、寒い。
干上がったように体が重くなって、ただの泥が詰まっているような気になる。

「わかった? 百合子。わかったの!?」

「い、や……」

「わかったの!?」

前髪を引き上げられても、焦点が合わない。
それとも涙で膜が張っているのか。

「みず、」

考えていたことが、ぽろりと唇から漏れだした。

「……わからないのね、まだ。馬鹿が抜けてないんだわ」

女は荷物でも運ぶようなぎこちない手つきで子どもの体を抱え上げた。

「い、や、だァ……っ! いだい、ィ、だ……っ!?」

「足りないの」

浴室のタイルに叩きつけられて、後頭部の髪を握られた。

安いアパートの浴室だ。
追いだきなどの機能はないから、湯は冷めきって、ただの水になっていた。

水に鼻先がつくほど後頭部を押しつけられて呼吸がはやる。

「ひっ、い、……いい、ィ、嫌、ァだっ……!」

「息を吐きなさい」

「やっ、」

女の膝が先ほど焼かれた背中を蹴った。

「痛あ゛、あうぶっ……!!」

悲鳴で呼吸を吐ききって、沈められた鼻と口から、冷たい水が流れ込んだ。
970 :とある一位の精神疾患[sage saga]:2011/12/29(木) 00:36:30.34 ID:K4Cb2VjZo











尋常でない痛みと苦しさに目を開けると、まぶたの内側に冷たい水が侵入してきた。

何?
何が起きてるの?

「ひィ゛っ、、、」

呻くように肩を持ち上げると髪を掴んで引き上げられる。

「わかったの? 百合子、わかった?」

わかるわけがなかった。
それでも百合子は咳込みながら必死に頷いた。

「あ゛、あ゛ィっ、あ゛がっだ、わがぢまィたっ、、、」

鼻から入った水のせいで生理的な涙がとまらなかった。
終わりのない痛みと苦しみで、胸がつぶれそうになる。

「……それで?」

不満そうな女の声に、百合子は飲みこんでしまった水を嘔吐しながら喘いだ。

「ぼくが、ごめンなさい、、、ぼく、わるいですっ、、、ごめンなさいっ、ごめ、」

「そうよね、あんたが悪いんだよね」

「そ、そォです、ぼく」

細い腕で支えきれなくて、タイルの床に転がった。

「わるい、ンです、ぼく、が、、、」

「そうよ。あんたとあの人が悪いのよ!」

「ン、、、ン、」

がくがくと頷いた。
そして、女のつま先にそっと指を乗せた。

「わるく、ない、です、おかァさン、、、」
971 :とある一位の精神疾患[sage saga]:2011/12/29(木) 00:37:08.42 ID:K4Cb2VjZo

「……やめてよ」

女の顔が歪んだ気配がした。見えないから、そんな気がしただけだ。

足りないんだ。
謝るのが、慰めるのが足りないから、やめろなんていうんだ。

「う、ごめ、げ、ほっ、ごめンなさいっ、、、」

「やめて……!」

喉が勝手にしゃくりあげた。
嘔吐して、鼻からぼたぼたと逆流する水が流れた。

「ごめンなさい、ごめンなさいっ、ぼくが、わる、わるいンです、ねえ、ごめ」

逃げるように引いて行った足首を掴んで、包み込むように腹の柔らかい所で温めた。
冷たいタイルの上で冷え切った女の足に子どもの体温が染み込んでいく。

「ぼく、、、もうきらいに、、、なン、ないでェ、、、」

「……、や、いやっ!」

虫でも這ったかのように、女はそれを振り払った。
振り払われて痛めた背中が浴槽の縁に強かにぶつかる。

「あう゛、っ、」

唇を噛んで悲鳴を呑むような子どもにむかって、もう1人は髪を乱してつかみかかった。

「そんなこと言って、また酷いことをするんだ! あんたも、結局あの人と同じなの!」

細い女の指が、細い子どもの首にかかる。

「ひぐっ、」

苦しさよりも、圧迫感を覚えた。
血が下がっていかない。口の中で舌が膨れて、脳がいっぱいにはちきれそうになる。

「私なんか、私が、奥さんだって言ったじゃないの! あんたは……!」

「か、、、あ、っ、やべ、で、、、」

ど、ど、と耳の傍で血管が暴れる音が聞こえる。
逃げ場がなくなった血液がごんごんと周りの肉を叩く。

「あ゛、や゛、、、ァ、」

唾液が泡になって口の端に滲む。
972 :とある一位の精神疾患[sage saga]:2011/12/29(木) 00:37:34.57 ID:K4Cb2VjZo

「さ、わ、、、、」

「うるさいぃいいっ! もっ、もう、言わないで!」

「あがッ、」

首に巻きついていた指がビクビクとはねた。

巻きつくように爪を立てていた指をまとめる。
両手の親指の付け根を重ねて、細い喉の上を強く締める。

「もう聞きたくないのよもう、もういいのよ、いいんだから……!」

「さ、」

部屋の方から西日がゆるゆる差し込んだ。
近くを通る線路の上を、通勤快速が小気味よいリズムの騒音を立てて駆け抜ける。

浴室の窓がカタカタとほんの少し揺れた。

「愛してくれないじゃない!」

「ちが、、、」

「愛してくれないなら、いらないじゃない!」

「、」

鼻の奥に、ずきりと痛みを感じた。
生理的な涙に、もう一つ別の色の涙が混じる。

「あんたなんて!」

「や、、」

言わないで、と言いたかったのかもしれない。

「もういらないんだよっ!!」

「、っ、、、や、、、」

大粒の涙が天井を向いた百合子の目尻から両脇に流れて、小さな耳の縁に溜まった。

どうしてだろう。

どうして自分はこの女に愛してもらえないんだろう。

どうして誰にも愛されないんだろう。
973 :とある一位の精神疾患[sage saga]:2011/12/29(木) 00:38:14.10 ID:K4Cb2VjZo

溶かした飴が引き延ばされるように、その一瞬は思考の中で非常な長さに感じられた。

罰なんだ。

そう百合子は思う。

瞬き一つする間にも満たない間にそれほどのことを思うのは、もしかしたら
百合子の脳には死の直前にふさわしい走馬灯がなかったからなのかもしれない。

言葉をそれほど知らないために、むしろ言葉にならない部分に百合子を深く埋没できた。

話せと言われてもできないだろう、そういう吹けば飛ぶような細かなものが集まって、
ぐるぐると回転する一つの円をつくっていく。

走馬灯の代わりに、それは長く長い思考の時間になって、悲しみと絶望で全身を苛んだ。

罰だ。
これは。

きっと自分は何かとんでもなく悪いことをしてしまったんだ。

それか、これからしてしまうのかもしれない。

それは誰かを傷つけたり、泣かせたりすることかもしれない。
もしかしたら今自分がされているように、誰かを片手間に甚振り、殺してしまうのかも。

何かとんでもなく過去に、もしくは未来に、自分が犯してしまった罪を、今償っているんだ。

だったら、この人はきっと悪くない。
きっと仕方ないんだ。

でも、いやだ。

そんなのはいやだ。

誰にも好きになってもらえないのは嫌だ。

誰にも愛されなくなったら、「死んで」しまう。

誰でも良いから。
一人でもいいから。

愛してほしい。
好きになってほしい。
名前を呼んで、隣に座ってほしい。

笑いかけて欲しかった。

そのためなら何でもする。何にだって耐えられる。
叩かれても、焼かれても、内臓を抉られても、体を切り取られたってかまわないのに。

「いらない」

僕は愛していたのに。

それが、一番残酷な言葉だった。
974 :とある一位の精神疾患[sage saga]:2011/12/29(木) 00:38:40.60 ID:K4Cb2VjZo

「ィ、や、、、」

「あんたなんて!」

耳の縁に溜まった涙は冷え切っていた。
その奥で、ざあ、ざあ、と血が巡る。

頭が重い。爆発してしまいそうだ。
心臓の鼓動がいつもの三倍あるのではないかというほど逸った。

「や、、、だ、」

ど、ど、ど、ざあ、ざあ、ざあ、一定のリズムが鼓膜を中から叩く。

「おか、ァ、さ」

女の手首を、子どもの小さな手のひらがぎゅうと握り締めた。

「やめ、」

「やめなさいっ! 汚い! あんた汚いのっ! もう、……」

「あ、」

「……いらないっ!!」

ぶづ。

頭の中で、圧力のかけられ過ぎた細い管が弾ける音が聞こえた。

「あ゛、」

血液が緩やかに脳の神経細胞を押しのけ、そこに溜まって固まるための準備を始める。

ぴちぷつと頭の中で何かの改変が行われていく。

「や、さ、、、」

世界は、聞きたくない音と、見たくないもので満ちている。

だったら、もう

「さ、さわらないで、、、ッ。」

何もかも、自分に干渉しないでほしい。

ばつん。

「いぎ!?」

女の口から、棒に打たれた犬のような悲鳴が漏れた。
膨らましたガムが弾けるような地味な音と共に、女の重い体が上からなくなった。
975 :とある一位の精神疾患[sage saga]:2011/12/29(木) 00:39:07.05 ID:K4Cb2VjZo

締めつけるもののなくなった喉に咳ききって空気を流し込む。
肩で息をつきながら、百合子ははらはら涙を零した。

「死ぬ」んだ。

もう、誰からも、自分は必要とされていない。
愛されていない。
好きにはなってもらえない。

きっと。
ずっと。

「う、……く? いひっ……!?」

女の体は、タイルの上に伸びていた。

いつも自分がそうなっているように、同じように。
今は女がそこに打ちのめされて横たわっていた。

タイルにうつぶせた頭を小刻みに震わせている。
首を絞めていた両手は、袖の中にしまっているのか、そこから先が見えなかった。

代わりに、なんだろうか。浴室中に、赤と、薄黄色と、ピンクのかけらが散らばっている。

黴だろうか。
ゴミだろうか。

あまり、綺麗なものには見えなかった。
そっと百合子はシャワーのコックをひねる。

横たわったままの女の体に、暖かいシャワーがかかり、汚れた何かを洗い流して行く。

「お、が、ァさン、、、」

伸ばしかけた指が彼女の頬に触れる前に、酷く安っぽい音がそれを邪魔をした。

「あ、、、っ、」

標準的なインターホンのベル音だ。
ドアが数回たたかれる。

  「もしもし? 隣のものですけど。今の音、何です?」

そのノックと男の声が、百合子の骨の奥の麻痺しかけた恐怖を呼び起こした。

「あ、あ、、、ッ」

部屋の中はすっかり暗い。

夜の忍び込んだ部屋で、百合子は濡れた服のまま痛む場所をあちこち押さえた。
976 :とある一位の精神疾患[sage saga]:2011/12/29(木) 00:39:37.33 ID:K4Cb2VjZo

どうしようか。
押入れにかくれようか。
ドアの外に男が居るから、そっちには行けない。

  「もしもし!? おい、ガキいるのか? おい! け、っ警察、呼ぶぞ、あんた!」

「ひ、」

頭の中に、パニックと恐怖心が渦巻く。

どうしよう。どうしよう。見つかったら、きっと叱られてしまう。

嫌だ。

誰にも、何もしてほしくない。

嫌いになられるくらいなら、いっそ無視して、いっそ無関心でいて。

「あ、ああァあ、、、や、どうし、、、あ、、、」

ぐるぐる、と頭の中に余計な思考ばかりが渦巻く。
手段は思い付かない。

狭い部屋の中だ。何もかも、隠れる場所など浅はかにすぎない。

  「くそ、カギ、管理人室か……おい! 開けろ! おい、大丈夫かよ!?」

がちゃ、とドアノブを揺する音に、知らず足が後ずさる。

怖い。

怖い、逃げたい。

追い詰められて、からからに干上がった口の中の唾液を呑みこむ。
締め上げられていた喉がずきずき痛んだ。

後ずさる背中に、冷たい窓ガラスが当たる。

「あ、、、」

夜だった。

低い建物の多い地域で、家はアパートの二階。
高い夜の空に一番星が見えた。

そっと窓の錠を回して開ける。
その間にも、背後ではドアノブを回したりドアを叩く音が背中を押し続ける。

夜風は、冷たくも温かくもなかった。
吹いていることは分かったが、肌を刺すような寒さも、髪を散らかされることもなかった。
977 :とある一位の精神疾患[sage saga]:2011/12/29(木) 00:40:03.90 ID:K4Cb2VjZo

ベランダから、下を覗く。
真下は掘り下げの乾いたどぶだ。

夜は黒く、その底を影に隠されて、下に何があるのか見てとることはできない。

もしかしたら昼間目にしていたあのどぶはなく、下はどこまでも底がないのかもしれない。

足のつかない地面をどこまでも落ちていくのだろうか。

とうとう、どこかから鍵を借りて来る、といって、男はドアの前を去った。
つまりもう時間がないのだ、ということらしい。

ベランダの柵は胸と腹の間くらいの高さだった。
エアコンの室外機をよじ登れば届きそうだ。

細い鉄柵の上で、誰からも愛されなかった百合子は部屋の中を振りかえった。

浴室の女は、まだそこから動かないつもりのようだった。
狭い浴室からふんわりとした湯気が漏れ出て、ざあざあというシャワーの音が聞こえた。

首を絞められた時に頭の中でなっている音に、よく、似ていた。

「ばいばい、」

御伽話のように、ふわりとはいかなかった。

がくんと急降下した肉体は一秒後に下の地面に横たわって啜り泣いていた。

それでも、真下の金属製の側溝蓋で打ってあらぬ方向に曲がった脚を引きずって、
百合子は夜の町に逃げ出した。

折れまがった裸足で。

引きはがされた、爛れた背中で。

きっと、きっと、誰にも見つかってはならないんだ。
そう百合子は思った。

自分はもうすぐ、「死んで」しまう。そういう生き物なのだ。
誰からも必要とされず。彼女に必要とされなくなったら。

死ぬ。

そう思ったとき、世界中のだれもから、百合子は接触を断とうと思った。
豊かな知識ではなかった。
いつもの公園の、狭い隙間からだけ入れる遊具の中に閉じこもった。

死期を悟った猫は姿を隠すと言う。
あれは傷ついているときに敵に襲われないように、隠れて怪我を直したがるからだ。
そして、治せずに力尽きてしまう。
978 :とある一位の精神疾患[sage saga]:2011/12/29(木) 00:41:01.90 ID:K4Cb2VjZo











死期を悟った猫は姿を隠すと言う。

あれは傷ついているときに敵に襲われないように、隠れて怪我を直したがるからだ。
そして、治せずに力尽きてしまう。

百合子は純粋に死に場所を探していた。

全身のどこからともなく、血が流れ出していることは知っていた。
もう、手先の感覚が痺れてなくなりかけていた。

眠りたかった。
休みたかった。

体よりも心がぼろぼろにすりきれてなくなりかけていた。
胸から鳩尾にかけて、差し込むような痛みがあった。

心臓が痛いのではない。
もっと原始的なことだ。

狭い遊具内で丁寧に、シーツでも整える手つきで小石を避けた。
治すのではない。
百合子には、もうそこまでの気持ちなどない。

全ての人間が怖かった。

誰にも会いたくない。
誰にも触られたくない。

もうすぐ百合子の生きている意味も、亡くなる。

だから最後だ。

仰向けできちんと横になると、自然と腹の上で指を組んだ。

だんだんと意識が遠くなる中で、やっと、これで自分は死んでしまうんだろう。そう思えた。

ドーム上の遊具の天辺には、アスレチック風のネットが張ってあり、
それを透かして夜空が見えた。

半分に欠けた月がぽかりと浮かんでいるのを眺めて、それがだんだん涙で滲んだ。

これから7年。
百合子は暗い夜の遊具の底で、ずっと、ずっと死に続けた。
979 :とある一位の精神疾患[sage saga !orz_res]:2011/12/29(木) 00:41:40.48 ID:K4Cb2VjZo











  「オマエのせいだよ」

うるさい。

  「否定しないンだね。じゃあ自分でもわかってンだ?」

違う。

  「わかってはいない? は、サイアクだよォ?」

うるさい。

  「最悪は肯定ね」

オマエだって、なにもできなかったじゃねェか。
俺は、

  「オマエはやった」

……そうだ、俺は、やった。

  「治してェ、って、医者に百合子の体を売りに行ってさァ? きゃは」

……

  「最後は結局、私が変わってやったンじゃン」

変わろうとは、

  「思ってなかったってンだろ? でも変わったンだよ。私に」

……

  「だンまりかよ……」



  「オマエが……! ちゃんと、してれば、」

……

  「オマエさえ、百合子を守れるような奴だったら」
980 :とある一位の精神疾患[sage saga !orz_res]:2011/12/29(木) 00:42:06.94 ID:K4Cb2VjZo

                                 百合子は、一番最初の百合子で。
                           それから「我慢するためのスイッチ」だった。

                               百合子は何もかも耐える役割だった。

           そして、我慢ができなくなると、スイッチが切りかわって、俺になるのだ。

  「オマエが、そンなンじゃなけりゃ……!」

                こいつは、「セックスの暴力を我慢するためのスイッチ」だった。

                                         微細な問題だった。
                          外見はもやもやとして形になっていなかった。

                            俺のように百合子にそっくりでもなかった。
                              ただ、ゆるやかに女の体型をしていた。

  「オマエは……ど、して」

                                                 俺は、

  「どうして、戦えないんだ」

                           俺は、「甚振られるためのスイッチ」だった。

                       攻撃人格でも、守護するための人格でもなかった。

                       俺が存在した理由は、百合子を守ることではなく。
       ただ、あの女に暴力を与えられた時に泣きわめき、下手な謝罪で許しを乞い、
                足元に這いつくばってすすり泣くためだった。それだけだった。

                               どうしてそうなってしまったんだろう。

                      勿論、それが一番強い百合子の望みだったからだ。

        自分の体を守ることよりも、女から与えられる愛情をどれだけ多くできるか。
                            それが、百合子の生きる理由だったから。
                            そういうふうに、育てられていたのだった。

  「なンでだ! なンでオマエ、百合子のことを……!」

ごめン。

  「……私に言っても、百合子は」

百合子の、体は残ってる。
981 :とある一位の精神疾患[sage saga !orz_res]:2011/12/29(木) 00:42:32.73 ID:K4Cb2VjZo

  「……」

百合子の人格は、わからねェ。
どこかにのこってるかもしれねェけど、わからねェ。

  「それじゃ、」

俺が、これから百合子の体を守る。

  「……」

俺が攻撃人格に、なる。

  「へェ」

やる、っつってンだよ。
ンな顔すンじゃねェ。

  「私に何をしろってンだよ?」

他の人格を殺す。

  「……」

人格がいくつもあると、俺と交代しちまうだろォが。
俺が全部うまくやる。

オマエらは……邪魔だ。

                           壁の奥の監獄の中身がざわざわと動いた。

俺がやる。

  「私は?」

俺がもし、スイッチの切り替えがあったら、オマエが出ろ。

  「……セックスする予定があンの?」

違ェよ、クソッタレ。
他のやつより、オマエが一番俺に近い。痛めつけられる人格だかンな。

  「へェ」
982 :とある一位の精神疾患[sage saga !orz_res]:2011/12/29(木) 00:43:26.81 ID:K4Cb2VjZo

だからいいな。
オマエは最後まで殺さねェ。

  「違う」

あ?

  「最後はオマエだよ」

……

  「百合子を取り戻して、オマエが死ぬンだ」

そォ、だな。それで元通りだ。

  「それまでに、百合子が一人でも生きていけるように。
   もう誰も、百合子を傷つけようなンて思い付くことすらしねェくらい」

……

  「そォ、なれるンだろ?」

……あァ、する。

  「じゃあ、好きにやれよ」

あァ。

  「中には少し揺すれば自殺するようなのもいる」

あァ。

  「早く、死ねるといいなァ」

……あァ、俺も。





                     ざ。

      あ、                      ざざ 、

          ざ                                 ざあ、
                                      ざあ。

                 ざぁ                           ざ 。
        ざざ ー

                    ざざ、         ざ。


                ざ、


                                          ざ。


    ざ  ー                   ざぁ


                 ざ、       



        ざ     ーーーー     












                         ざざ。
983 :とある一位の精神疾患[sage saga]:2011/12/29(木) 00:43:53.33 ID:K4Cb2VjZo











「あ、もしもし? すみません、木原数多を出してくれませんか」

「虚空、といえばわかりますから。……ええ、お願いします」

「……やぁ数多くん。僕だよ、虚空。元気?」

「やっぱり? だよね。そういえばテレスは元気かな。術後どう?」

「よかった。まあ手術自体は成功してるに決まってるけれど。
 その後のケア次第では廃人だもんなぁ、全身爆発ってさ」

「酷いことするよね、あのじいさんも。僕嫌いだよ。小さい子を弄んで」

「うん? ……そんなこと言わないでよ、数多くん」

「僕だって……傷つくんだからね」

「そりゃね。周りにあれだけ監視がついてちゃ」

「あの……だって、手術中に、ヤるわけにもいかないでしょう?」

「テレスはかわいかったよ。
 でも僕、意識も戻らないような半死体犯して喜ぶ変態さんじゃないんだ」

「まさか、そんな! って、もしかしてまだ根に持ってるの?」

「被験体だっけ? もう利用価値なくなってたんだし、いいじゃないか。
 その前に実験で半身不随にしたの、君じゃない」

「ええ? なんで? 悪いことないじゃない」

「笑わせないでくれよ。それと、今日は別件で。子ども1人預かって欲しいってお話」

「あっちこっち大けが。……僕の子じゃないよ! そういうことじゃなくて、そうだなぁ」

「廃品回収?」

「うん、子どもなら何人いても困らなそうだし。……いや、生きてるよ?」

「ちょっと変わった症例で。もしかしたら数多くんの開発してる、あれかもね?」
984 :とある一位の精神疾患[sage saga]:2011/12/29(木) 00:45:06.25 ID:K4Cb2VjZo

「流石に、数多くんも「木原」だね。好奇心旺盛って、僕は好きだよ」

「……酷い。別にそんな意味じゃないよ。それに今は数多くん嫌い」

「ね? だから、ほら悪い話じゃないじゃない」

「親は……しらない。色々あったの」

「殺してない」

「いや? 知らないけど」

「それ、知ってどうするの……数多くん、そういう話は君にも向いてないよ?」

「……ねえ、困らせないでくれよ」

「プレゼントみたいなもんだから、黙って受け取れよ。廃品だけど」

「……言うようになったよね。前よりずっと」

「……おい、黙ってろ」

「……クソガキ」

「ねぇ、誰も頼んでねぇんだよなぁ。オマエの反吐みてぇなお説教なんざ」

「聞こえなかったか? 俺が頼んでやったんだ。答えはハイで十分だろ」

「あぁ……金? 困ってるんだ。それでそんなメンス中のビッチみたいな怒り方するんだ」

「ああ、いいよ。数多くん。あげるよ、お小遣い」

「……君の研究は嫌いじゃないよ」

「でもテメェみてぇな育ちきったドグサレに興味はねぇからふざけんな」

「……だよねぇ! そんな心配するような性癖だったら殺してるよ!」

「俺の好物は、自分より何もかもすべてにおいて非力なガキだけだよ」

「……数多くんに言われちゃおしまいかな。……うん。明日搬送してく」

「ま、それまでアレが生きてるかどうかなんて、わかんないけど……」

「そう、うん、ごめん。……ゲログチャに、ヤり潰しちゃったから、さ……」 
985 :SS寄稿募集中 SS速報でコミケ本が出るよ(三日土曜東R24b)[saga]:2011/12/29(木) 00:45:44.96 ID:K4Cb2VjZo

はい、ここまでです。

ながかったです。
ありがとうございました。

これで今回の過去編はおしまい。
次から現代編に戻ります。

ついでなので、いまから次スレ立てて来るね! 
987 :SS寄稿募集中 SS速報でコミケ本が出るよ(三日土曜東R24b)[sage]:2011/12/29(木) 00:51:54.20 ID:wmWAYzCTo
乙です
次も楽しみにしてます!
988SS寄稿募集中 SS速報でコミケ本が出るよ(三日土曜東R24b)[sage]:2011/12/29(木) 01:11:39.62 ID:WYqAPBLW0
乙です!
ようやく辛い過去編が終わったと思ったらまだ修羅場続いてるんだよなこれ…
989SS寄稿募集中 SS速報でコミケ本が出るよ(三日土曜東R24b)[sage]:2011/12/29(木) 03:05:03.45 ID:zvsTqWwFo

言葉もでねぇわ…ゆりこちゃん…
990SS寄稿募集中 SS速報でコミケ本が出るよ(三日土曜東R24b)[sage]:2011/12/29(木) 10:26:23.08 ID:2aX/8L4xo
うぉお乙です 
997 :SS寄稿募集中 SS速報でコミケ本が出るよ(三日土曜東R24b)[sage]:2011/12/30(金) 00:11:51.94 ID:CWQtSsm/0

百合子のこと幸せにしてあげたくてたまらない
998SS寄稿募集中 SS速報でコミケ本が出るよ(三日土曜東R24b)[sage]:2011/12/30(金) 04:59:29.39 ID:OdcT4spX0
乙です
百合子をなでなでしてあげたいです・・・!

0 件のコメント:

コメントを投稿